―― 27の真の紋章 生まれいずる ――

最初に『やみ』があった
『やみ』は長い、長い時のはざまに生きていた

『やみ』はあまりに長い間 さびしさの中で、苦しんだため、ついに『なみだ』をおとした。

『なみだ』から二人の兄弟が生まれた。
『剣』と『盾』である。

『剣』は、全てを切りさくことができると言い、
『盾』は、いかなるものにも傷つけられないと答えた。

そして二人は戦うこととなった。
戦いは7日7晩続いた。

『剣』は『盾』をきりさき、
『盾』は『剣』をくだいた。

『剣』のかけらがふりそそぎ、空となった。
『盾』のかけらがふりそそぎ、大地となった。
戦いの火花が星となった。

そして、『剣』と『盾』をかざっていた27の宝石が、
『27の真の紋章』となり、世界が動きはじめたのである
 



遠く、祭り囃子のような人々の明るい喧噪が聞こえていた。
ルックはちらりと酒場から漏れ出る明かりを認め、しかし立ち入ろうとはせずにさっさとホールを横切り正面の階段へと向かった。そこでも、酔っぱらった兵士が連戦の疲れも気にせず大きな杯を掲げながら騒いでいたが、ルックは厭わしいものでも見るように一瞥しただけだった。
ここ数日、同盟軍の士気はうなぎ登りと言っていいほどで、破竹の勢いで快勝する軍の勝利を祝って毎夜このようにあちこちで祝杯が掲げられた。中でも今夜はもう夜半になろうとしているのに、未だ収まる気配がない。
先だってはついに、デュナンの北の要、ミューズの剣であるところのマチルダ騎士団を要するロックアックス城が陥落し、その古めかしい頑強な城壁には同盟軍の紅の垂れ幕が、同じく塔のてっぺんには旗が踊った。
ミューズ北部の村の焼き討ち、そしてジョウストン都市同盟の盟主たるミューズの陥落から数ヶ月あまり。
同盟軍はついに、その領地を統一戦争開始以前まで取り戻したのだった。
そうなればいよいよ、やるべきことは一つ。
北上し、平野のただ中にある皇都ルルノイエを攻め落とす。
人々は戦争の終結を、そして勝利を予感し大いに盛り上がったが、敵軍のルルノイエ防衛の要とも言えたロックアックスを落とすに際し、一人の少女の命が失われたことを、知る者は少ない。


『何がっ、――何が''輝く盾の紋章''だ!!!』

結局、本当に大切なものなど何一つ守れやしない。

冷たくなっていく姉の体を抱き、そう慟哭した彼を。その震える小さな背中を。
仲間の誰も、声をかけることもいたわることもできなかった。
ルックもまた何もすることもできず、ただ一人、運命に翻弄され嘆く少年を見つめ、その救いのない運命を呪った。
その脳裏に浮かぶは創世の物語だった。
即ち、

― 盾はいかなるものにも傷つけられない ―

彼の命は守られた。
皮肉にも『盾』となり身を挺して弟をかばった姉のおかげで。
しかし、これで終わりではないのだ。
紋章の力は、運命は、こんなものではない。

盾は剣を砕くが、盾もまた剣により切り裂かれるのだから。




軍主の部屋の前まで来ると、さすがに喧噪も遠く、ひやりとした空気があたりを包んでいた。
もしかしたら、ついにシュウの雷が落ちて解散させられたのかもしれない。まだ戦は終わってないのだ。
ともかくも一旦帰城した軍主とシュウは、最後の侵攻に向け馬を調達し人員を配備し、準備を整えているところだった。その中で、死者の簡単な密葬も行われた。
軍主の顔は今にも死にそうに真っ白で周りの者ははらはらと見守っていたが、それでもついに彼は軍主として取り乱すこともなく、ただ黙って、花を添えられ埋められていく少女を見届けた。
あれからまだ、一夜も明けていない。


「リュカ、いる?」

黒檀で出来た重厚な扉をノックする。戦時ということで奢侈ではないがその木材から取っ手にいたるまで、全てが一級品だ。
しばらく返事を待ってみたが、扉は黙したままだった。石造りの壁の向こうでも、何の音もしない。
いないはずはない。
階段下の見張りの兵士は城主が確かに部屋へ戻ったのを確認している。
「リュカ…?」
磨かれた真鍮のドアノブを捻ると、すぐにつっかえた。――鍵がかかっている。
部屋の中に意識を向けたが、物音一つしない。
寝ているのか。
だがルックはその考えをかぶりを振って否定した。
世界で最も大切な人の一人が死んだ夜、穏やかに眠れるはずもない。

ふと、先の葬儀の様が思い浮かび、言いようもない不安がルックを襲った。
彼を本当に愛し、案じてくれた姉はもう亡い。誰もいない部屋でたった一人、彼はどうしているのだろう。

口の中で早口に呪文を唱えると、ルックは部屋の中に転移した。
燭台に火を灯すこともなく、薄暗い部屋だった。綺麗に整えられたベッド。丁寧に並べられた本棚。磨かれた調度品。埃一つないカーペット。

誰もいない。

ただ最奥の、身長の倍はあろうかという大きなガラスの扉が、半開きになり、白いカーテンを揺らしていた。


「リュカ…!!」

その瞬間の、背筋の凍るような感覚。

生という生が全て死に絶え、全てが手遅れ、全てが失くなってしまったような、そんな空恐ろしさ。

運命とは、
結局、人は、
紋章の呪い
ナナミの死、葬儀
死にそうなのはどっちだ
無力な存在が行くつく果ては、

――盾は、剣に――

血の気が引き、吐き気をこらえながらルックはただまっすぐにテラスへ飛び出した。
冷え冷えとした夜気がルックを捕らえ、細い月の光が白い頬を青く染め上げる。頭は最悪の予測におののいていた。


しかし図らずも、少年はそこにいた。


乱暴に開け放たれた扉の前で立ち尽くすルックを、リュカはきょとんとした顔で見つめていた。その大きな目を更に大きく見開き、ひとつ瞬きをする。

「どうしたの?」

首をかしげて来訪者に尋ねた。
いらえはない。
ふいに、ルックは怒ったようにつかつかと歩み寄ると、リュカの腕を取りきつく掴んだ。どのくらい風に吹かれていたのか、夜に侵食された体は冷たかった。

「な、何?」
「何してるの」
「何もしてないけ、ど…ただ、景色を見ていただけだよ」

そう言ってリュカが城下を示すと、夜襲を警戒してか盛大に焚かれた篝火があちこちで天を焦がし、それは美しい光景だった。
その薄暗い炎を受け、ルックの深緑の瞳がぎらりと光った。無意識か、意識的か、掴んだ腕に更に力が込められる。

「ルック、痛いよ」
「……」
「離して」
「死ぬつもりじゃないだろうね」

彼の使う風の魔法のように、容赦のない鋭い問いだった。
リュカの大きな瞳が、一瞬だけ動揺したように揺れた。隠すように俯いた彼はかぶりを振って「違うよ」と小さく一言、呟いた。

「そんなつもり、ない」
「ふうん」
「疑うの?ぼくにはまだ、やることがあるよ」
「幼なじみを殺すこと?」

今度こそ、誤魔化しようもなくリュカはおののいたように体を震わせた。
夜を映した瞳が大きく揺れる。あと何か一つでもきっかけがあれば、リュカはそのまま、大声でわめきたて泣き出してもおかしくなかった。
だが、彼は強情で、そして軍主だった。

「ルック、離して」

静かに告げられた言葉に、ルックは深い溜息と共にゆっくりと手を離した。魔術師としてさほど力があるわけではないが、それでもリュカの腕にくっきりと残った赤い跡が、彼の心情を吐露していた。
リュカは自由になった腕を少しさすって、そして再びくるりと背を向け城下を見渡した。
月はいよいよ中空高く登ったが、その光は細く弱く、そして地上の炎に敗れ消し去られるかのようだった。

「ルックの言うとおりだよ」

城下の大篝火に照らされ、ゆらめく影の中でリュカは口を開いた。

「ナナミを失って、明日明後日にはルルノイエ侵攻だ。そこにはジョウイがいる。ぼくは、逃げたかった。――死ぬつもりは、なかったけれど、ルックに言われた時、たぶん心の底の願いに気づかされたんだ」
「リュカ」
「ううん。死なないよ。そんな馬鹿なこと、しない。――だって、ナナミが救ってくれた命だもの」
痛みをこらえるように、低く低く呟く声は哀惜に充ち満ちて。
まるで弔いの炎のように、篝火は赤々と燃えさかり、運命に翻弄される少年を照らし出した。
その、影で。
やはり己に絡みついた過酷な運命から逃げようとあがく少年がいる。

「……君が望めば、いつだって、逃げることが出来る」

「そうしてまた、誰かを犠牲にするの」

ルックが絞り出した願いを、しかしリュカは悲しみに満ちた決意で返した。
「リドリーさんが死んだのも、ナナミが死んだのも、僕が逃げたせいだ」
かつて一度、彼は逃げた。その代償は、大きかった。
「同盟軍に戻った時、僕は二度と逃げないと誓った。それなのに、ジョウイに会った時、迷ったんだ。まだ、まだ、なんとかなるんじゃないかって」
「リュカ…」
「僕の甘い心が、ナナミを殺した」
ジョウイとの再会がリュカに動揺と隙を与え、その背後から矢をつがえたゴルドーたちが現れた。弟を守り凶刃に倒れた姉の姿を、リュカは生涯忘れないだろう。

「でももう、ぼくは逃げない。迷わない。僕はここに立つことを望まれている。そうすることで、少しでも誰かが救われるなら、そうしたいと思ったんだ。たとえそれが運命でもね」
運命。
深い決意を秘めた声の中で、ことさら軽口のように告げられたこの言葉が、今のルックには重くのしかかった。
紋章の定めは終わっていない。争いの果てにのみ現れるという紋章は、未だ、彼とその幼なじみの右手に別れて備わり、時を待っている。
運命という名のきざはしをただ駆け上がり、下ること許されず。あるいは、そうと知れず下っているのかもしれなかった。ただひたすらに深く深く。


自分の運命すらどうにもできないのに、まして誰かの運命を変えることなど、できないのだろうか?


もうどうにも、自分にはどうすることもできないと悟り、ルックは微かに嘆息した。深緑の瞳が閉じられる。酷く落胆し、ひたりとせまる絶望が狂おしく、厭わしかった。

「――きみが決めたなら、僕が言うことはもう何もないよ」
「…ぼくがクロムに帰ってきた時も、ルックはそんな顔をしていたね」
不思議に穏やかな、しかし悲しい微笑みを湛えてリュカは言った。
「どうして戻ってきたりなんかしたの」
「ごめん」
「…別に、もう、言っても詮無いことだね」
「ルック……」

いつの間にか、東の空がうっすらと白み始めていた。
リュカが顔を上げ、眩しそうに黎明の空を見つめた。濃紺と藍はおいやられ、たなびく白が赤光を従えその領地を広げてゆく。
やがて大地にも無常の光は降り注ぎ、篝火は消し止められ、黒い煙を薄くのばすだけとなった。
見張りの当番兵たち以外にもきびきびと動き出す人々の姿が、ここからでも見て取れた。
軍馬のいななき、武器を運ぶ音、車輪を引く様、忙しそうに掛ける人々。

いよいよ、時は至り。

「ルック。そろそろ、戻ろう。夜が明けちゃったよ」
「きみがこんなところでのんびりしてるからだろう。出軍の時に寝ないでよ」
「寝ないよ!ルックこそ!」
「きみと一緒にしないでよ」
「酷い。あ、そういえば魔法兵団は旗本隊の隣だよ。安全だね?」
「逆じゃないの。きみはいつも無茶してつっこんでいくんだから。巻き込まれる僕の身にもなってよね」
「ルックが守ってくれるんだよね」
「冗談」

先までのやりとりを嘘にするように、太陽の下に洗われた空気を吸い込んでリュカは笑い、絶望を隠してルックはそれに付き合った。
戦までの、つかの間の歓談。
「ほら、いくよ」
「うん」
返事とは裏腹に、リュカはテラスの壁に張り付いたままだった。城下を覗き込み、人の、営みを見つめる。眩しそうに細められた瞳に、黙して語らない脳裏に、一体何が浮かんでたろう。
「……お茶でも煎れてるよ」
「ルック」
嘆息し、先に室内に戻ろうとしたルックに、声がかけられた。
ルックが黙って振り返る。
リュカの小さな背中が見えた。あまりにも大きすぎるものを背負わされた背を。

「ねえ、ルック。これが運命だとしても、それでも…」

それは、とても小さな声だったけれども。

「それでも、あの時。逃げることを許してくれたきみの言葉を、ぼくは忘れないよ」



重すぎる荷を背負わされた彼の、その心を少しでも軽くしてやれたのか。
ルックにはわからなかった。



ゆきてかえりえぬきざはし



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Luc*fes2010おめでとうございます!
未だこれほど愛されてるルックに幸あれ。ずっとずっと大好きです。