ヒビキの部屋はごく普通の一軒家の二階にあり、床には擦れて薄くなった絨毯がひかれ、傷が入った勉強机があって、夜休むためのベッドがある。夕飯を終え部屋に戻ると、マリルは一目散にベッドへ飛び乗り、スプリングを利用して遊び出した。板が抜けることはないと思うが古いベッドなので少し心配だ。抱き上げられたマリルは今度は何で遊ぼうかときょろきょろと視線を彷徨わした。まったく、何も変化のない日常だ。 部屋の片隅には細いポールが立っていて、そこには小洒落たメッセンジャーバッグがかかっている。ポールに向かっていこうとするマリルの尻尾を掴むと、ヒビキはそれを意図的に視界から外した。 薄く埃を被ったバッグは、ずいぶん前にコトネからプレゼントされたものだ。コガネに住む祖父祖母を訪ねた際に「私も行く!」と双方の両親に無理言って付いてきたコトネは、立ち並ぶビルのショップでヒビキを長い時間拘束した。たくさんの荷物を抱えさせられワカバに帰ってきた時、コトネはおもむろに荷物の一つから特別に彩られた箱を取り出し、今日はありがとう、ととびきりの笑顔でそれをヒビキに差し出したのだ。 『いつか、私たちだけで行くときのために』 私たち。コトネと、ヒビキ。二人きりで。子供たちの空想の中で、行く先はコガネであり、エンジュであり、カントーであり、世界だった。 幼さの残る表情で微笑んだコトネに、ヒビキも頬を染めて笑った。 懐かしい。そう思うだけの時間が経ったという事実に、ヒビキは苦く笑った。 記憶の中の二人は笑っている。現実を知らない、子供の表情だった。 コトネは幼なじみだ。ずっと一緒だったし、またこれからもそうだと思っていた。 だから彼女が、旅に出ることにしたの、と告げた時ヒビキはとても驚いた。けれど、それでもまだヒビキは余裕の態度だった。 もしもあの時、自分も行くと言っていたら。 まったく、馬鹿だ。 コトネの告白の次の朝、ヒビキは少女を送り出した。旅の準備は、しなかった。 風に乗るのがコトネの役目なら、その翼を休めるための止まり木が自分の役目だと思ったからだ。そう決め付けて、たくさんの可能性を殺した。何もわかってなかった。 コトネが旅先からかける電話の着信音で、ヒビキのポケギアはしょっちゅう震えていた。こまめに連絡を入れてくれることが嬉しかった。彼女はワカバを、自分を忘れていない。ヒビキはポケギアを片時も手離さなかったし、コトネがワカバに帰ってきたときはとっておきの笑顔で迎えた。コトネも喜んでくれたし、土産話で盛り上がり朝まで過ごしたこともあった。この瞬間だけは旅に出る前の二人に戻っていたと、ヒビキは思う。だから、ずっと気づかなかった。 異変を感じたのは、コトネの話にある男の名前が頻繁に出てくるようになったからだ。その男の話をするときだけ、コトネはヒビキの知らない空気をまとった。恋をすると女の子は変わる、なんて、お話の世界だけだと思っていたのに。現実はお話のようには甘くない。 そこからはもう、風雲急を告げるようにどんどん世界は変質していった。 コトネが乗った風はジョウトを駆け抜け、カントーにまで渡ろうとしている。コトネの世界は広がる。 そしてそれは、ヒビキの世界とは重ならない。 それでもまだ、ヒビキは動かなかった。動けなかった。 コトネの故郷がこの風吹く街であることが変わらぬように、いつかは自分の隣に帰ってきてくれると、なんの根拠もなく信じていた。 自分は馬鹿だ。幼なじみなんて、何も特別じゃない。 意地を張って、大切なものを失ったと思う。 ヒビキは立ち上がると、力なく垂れていたメッセンジャーバッグを取り上げた。足下にじゃれつくマリルを器用に避けてクローゼットへ歩むと、一抱えほどの箱を取り出した。綺麗に飾り立てられた箱だった。あの日コトネが、ヒビキが一番好きな笑顔と共に渡してくれたものだ。 箱をあけ、バッグを丁寧しまう。 結局、一度も使うことはなかったな。そう思い、ヒビキは苦笑した。コトネは怒るだろう。せっかくプレゼントしたのに、と腰に手を当てている彼女が浮かんだ。それから想像の中の彼女は「一緒に旅に出る時に使う約束だったじゃない!」と言った。これは願望だ。彼女は約束を覚えているだろうか。 箱をしまい、クローゼットを閉じる。振り返ると、部屋はたった一つカバンを失っただけなのに、とても広く、寂しく感じられた。 あの時、自分も行くと言っていたら。 きっと今とは違う未来があった。僕の隣には、きっとまだきみがいた。 |
気がつけばそこに、きみはいない。 |