半開きのカーテンから差す光で、ベッドは焼けるようだった。もちろん、ベッドの上の体もだ。もし体がバターならとっくに溶けているところだ。
しばらくは降り注ぐ陽光に抗いながら懸命に惰眠を貪る努力をしていた。なんとなく、見ていた夢の続きが気になったからだ。
だが脳は徐々に覚醒し、夢の内容はどんどん失われていった。それに、暑い。意識が覚醒すると、背中に張り付いたパジャマも気持ち悪かった。
ついに諦めて体を起こすと、古いベッドはきしりと鳴いた。のっそりと立ち上がって、同じだけ古ぼけたカーテンを少し乱暴に開ける。途端、容赦のない光が照りつけた。

「……あっちー」

そんな、夏日の予感を孕んだ朝だった。


「おはよう、ヒビキ」
「おはよ…」
階下で母親に幾分遅めの挨拶をして、軽く朝ご飯を胃に押し込むと、僕は出かける準備をした。
だがいざ出発という段階になって、マリルの姿が見あたらない。あいつが朝、横にいてくれればもう少し涼しい目覚めが期待できたのに。
ぐるりと家を回って見つからなかったので、たぶん、先に行ったんだろうと結論づけて、外へ出た。むわっと広がる熱気に一瞬だけ息を詰まらせ、それから考え直して大きく夏の吐息を吸う。
暑くても、いい。
今日は、コトネと海で遊ぶ予定だった。

つい一週間前、コトネはようやく故郷ワカバタウンに帰ってきた。
チャンピョン、という新しい肩書きをつけて。
「しばらく家でのんびりするつもり」
そういって笑ったコトネの顔に陰りはなく、旅をやり遂げた達成感でいっぱいだった。
たくさんの人からお祝いと労いの言葉がかけられた。町は小さなお祭りのようになり、コトネはその中心で本当に楽しそうにはしゃいでいた。夜が更けてアルコールが配られる頃になって、子供は寝る時間と家においやられるまで、コトネはずっと楽しそうで、私が主役なはずなのにー、と言いながら笑っていた。
そんなコトネの姿を見るのはヒビキとて嬉しいはずなのに、その夜はどうしてかうまく眠れなかった。騒ぎの余韻で興奮していたせいか、それか暑かったからかもしれない。
なんとなく、コトネは変わったな、と思った。そしてその原因も、やっぱりなんとなく、予想できた。
いつも、電話していたから。それに、幼なじみだから。



ワカバタウンの目の前に広がる海に着いたとき、そこでは既に少女が歓声を上げながら水遊びをしていた。

「あ!ヒビキくん、こっちー!」
「おー。なんだ、もうびしょ濡れじゃん」
「だってマリルが、」
きゃあ、という可愛い悲鳴と共に、コトネが派手な水しぶきを上げて倒れた。水面から飛び出した青い体がコトネに体当たりをかましたのだ。
あーあ…。
「マリル、こっちに来てたんだ。お前を捜してたから遅れたんだぞー」
「もー。他に言うことないのかな?」
水をかき上げながら起き上がったコトネに手を貸してやり、マリルには「よくやった」と褒めたら、ひどーいと小さく笑い声が響いた。
釣られて僕も笑い出す。
夏の日差しを浴びて煌めく水面に、二人分の歓声が広がった。


楽しみであればあるほど、それを待ってる時間はとても長い。
そして楽しみであればあるほど、やってきた時間はあっという間に過ぎ去ってしまうものだ。


日差しが傾き、西の空が茜色に染まろうとしていた。
だが空気は未だじっとりと熱を持ち、素足に打ち付けるさざ波がひんやりと心地いい。
「すっごい遊んだね」
「うん。遊び倒した、って感じ」
コトネがじゃぶじゃぶと水をかき分けてこちらへ来た。足下に絡みつくマリルを踏まないように注意しているらしかったが、マリルの方はコトネの足を避けるゲームをしているらしかった。
体重を後ろに預けて座り込んでいる僕の隣まで来ると、同じように腰を落として、小首をかしげた。
「ヒビキくん、疲れた?」
「んー、でも、楽しかった!なんか懐かしいね」
「そうだね。去年も…こうやって遊んだね」
「一昨年もだ」
「その前もだよ」
コトネが薄く微笑んでそう言った。
うん、そうだ。ずっと一緒だった。
波の音が思い出の中の音と重なる。今のコトネよりもう少し幼い顔立ちをした少女が現れて、やはり同じように子供の僕の隣に座った。黄昏にさらされながら、子供達は暗くなるまでずっと話していた。笑い声が遠く響く。
コトネとは、ずっと一緒だった。
だから僕の思い出にはいつもコトネが登場したし、コトネの思い出にも僕が登場してるだろう。
なにせ二人は幼なじみなのだから。
思い出の共有。

それは、追憶だった。

「マリルも、疲れた?それともまだ遊び足りないかな?」

ふいにコトネが発した言葉で、遙かな憧憬は消失した。
波の音が聞こえるようになり、意識が記憶から現実へと帰還する。空の色が思い出よりも濃くオレンジ色に照り輝いた。
コトネを振り返ると、彼女は海でも黄昏でも僕でもなく、誰とも目を合わせないようにして俯いていた。
自分の名前を呼ばれたらしい、と気づいたマリルがくるりと首を向けた。
今のはきっと、わざとだった。
記憶は記憶だ。'今'とは違う。たとえどんなに似ていても。

「……マリル。コトネが疲れた?だって」
遊びに夢中で気づかなかったらしいマリルにそう教えてやると、マリルはそんなことはないといわんばかりに一声鳴いて、大きく跳ねた。しっぽのバネがぐぐっとたわんだのが見えた気がした。冷たい飛沫が顔にかかり、…次の瞬間その丸いからだを精一杯使って飛びかかってきた。
「うわっ」
「きゃ」
マリルが食らわせた体当たりに体勢を崩し、コトネもろとも倒れ込んでしまう。受け身とかそういうのは、考えられなかった。

気づいたら、コトネの顔が目の前にあった。

こんなに至近距離でコトネの顔を見たのはいつぶりだろう。吐息が、交わりそうだ。
本当に、あと少し屈んだら、唇が触れあうほどだった。
コトネは動かない。僕も、動けない。
夕映えが二人の影を染め上げ、時間が止まったように錯覚する。
コトネの黒い瞳が、僕を捉えていた。

「コトネ、好きだ」

ただ、それだけ告げた。
動かない瞳。動かない身体。
止まってしまった時の中で、さざ波が起こす水音だけがこれが夢でも過去でもなく現実だと教えていた。

ふと、コトネがまばたきをした。
まぶたから押し出された涙が一滴、頬を伝ってこぼれ落ちていった。
…綺麗だった。

「ごめん、なさい」

たぶん、そう言ったのだと思う。コトネの口がその形に動いた、というだけだ。
斜陽の空の下、何もかもがオレンジ色に染まった景色の中で、あふれ出す涙を両腕で隠しながら、コトネは静かに泣いた。

「…………」

僕は、大きく息をつくと、黙って立ち上がった。

「ごめん」

思っていたよりも、素直に言葉が出た。
だってきっと、僕は知っていた。コトネの気持ちも、こうなることも、

「知ってたよ。けど、コトネの口から、聞きたかったんだ」

そのせいで、傷つけたね。
だから、ごめん。

もう一度謝ると、コトネはぼろぼろと涙を零しながら、大きく首を振った。

「ヒビキくんの方が、優しいよ。優しさに甘えていたのは私なのに」

しばらくして、コトネが自分で立ち上がるまで。
黙って、僕は待っていた。
今度は手は差し出さなかった。コトネの手も顔の前で重ねられたまま、たくさんの涙が、コトネの腕を伝って海へと溶けていった。





「ヒビキくん」
「うん?」
「私を、好きになってくれて、ありがとう」

帰り道、夜に溶けそうな星空の下で、コトネは言った。もう、泣いていなかった。
僕が前に進むために必要なことをしたように、コトネが進むためにはあの涙が必要だったんだろう。
「うん」
それだけ言ってから、思い直して、どういたしまして。と付け加えた。
コトネは少しだけ微笑んだ。薄くて、寂しい笑い方だった。コトネはいつの間に、こんな笑い方を覚えてしまったんだろう。去年は、こんな顔はしなかった。もしかしたら、自分も。

「えっと…私、もう行くね」
「うん。気をつけて」

家はもう目の前なのに、なにを気をつけるのか。
コトネが玄関をくぐるのを、僕はぼんやりと見つめていた。一瞬見えた明かりの向こうに、コトネのバッグが置いてあり、その上に白いキャスケットが乗っていた。きっと、丁寧に洗濯され整えられているだろう。

扉が閉じて明かりが遮られるまで見届けてから、僕はきびすを返した。すぐ隣の家までの短い距離を、ことさらゆっくりと歩く。夜気が涼しい。昼間の暑さが嘘のようだ。
思い出の続きを、今度は一人で考える。
夏といえば小さい頃から海で遊ぶのが二人の日課だった。
去年も、一昨年も、その前の年だって、ずっとずっとそうやって遊んできた。
びっしょりになるまで遊んで、日が暮れれば家へ帰る。長い長い影が砂浜に刻まれ、二つの影は真ん中で一本の線で繋がっていた。

今年も、同じ夏を過ごすはずだったのに。


振り返っても、頼りない街灯が作った薄っぺらな影が一つあるだけだった。
だけど、たとえ隣にコトネがいて、そして力強い太陽が影を作ってくれていたとしても、もうその影は決して交わらない。
笑顔を浮かべ、手を繋いで帰る日は二度と来ないのだった。


そして次の日、コトネはカントーへと旅立った。
この日もやっぱり、昨日と同じ暑い夏の日だった。



残照