朝から降り続く雨でしっとりと濡れた空気が、ひそやかに街を包み込んでいた。 歴史の眠る街、古都エンジュ。美しい町並みに惹かれる旅人たちや、ジムバッジを集めるトレーナーたちで賑わう活気ある街だが、さすがに雨ともなれば、道行く人影は少ない。 そんな中、雨粒を集め少しだけ水量の増した川を、橋の上から一人の少女が眺めていた。空から落ちる水滴が、ぽた、ぽたたんと不規則に傘を叩くと、少女の顔に笑みが浮かぶ。 「コトネちゃん」 雨音が奏でる音楽を楽しんでいると、思いがけず呼ばれた自分の名前に少女は振り返った。 「マツバさん」 「やあ。こんにちは」 橋の反対側には背の高い金髪の青年が立っており、コトネが振り向くとにっこりと微笑んで側まで歩いてきた。 「お久しぶりで…ってほどでもなかったですね。この間は買い物に付き合ってもらっちゃって、ありがとうございました」 「お安いご用だよ。僕も楽しかったし、なんなら、また誘って欲しいな」 ふわりと柔らかく微笑む青年に、コトネの表情もまた緩む。この青年はいつもそうだった。人を温かくさせる笑顔を持っていると、少女は思う。 「よく私ってわかりましたね」 後ろから話しかけられたことについてコトネが小首をかしげると、マツバも同じように首をかしげた。 「一目でわかったよ?」 「だって、傘さしてたのに」 と、言いかけて「あ」と小さく声をあげた。マツバも、コトネの顔を見て苦笑している。 「だってその傘…僕が選んだし」 やっぱり、よく似合ってるね。かわいい。 そう付け加えられた言葉に、少し赤くなりながら礼を言う。くるりと回った赤い傘から雫がぽたぽたと垂れた。 コトネが差している傘は、先日マツバと一緒に買い物をした際に手に入れたものだ。普通の傘と違って、骨がたくさんある。舞妓さんが持っているような番傘に一目で釘付けとなったコトネに、マツバが気づいてプレゼントしたものだった。 深い赤には一条、青味のある紫紺が差していて、そこだけが舞妓の傘と違う。 紫はね、高貴な色なんだよ。 そう言って彼が選んでくれた傘を、コトネは早く使いたくて連日ずっと空を眺めていた。高貴、という言葉が自分に似合うかなんて、考えたこともない。ただ、彼がそう言ってくれたのはなんだか大人になったような気がして嬉しかった。 こんなに雨が待ち遠しかったのは、初めてだ。 「あ、マツバさんも、その傘、あの時の」 「うん、コトネちゃんの傘見てたら気に入っちゃって、僕も買っちゃった」 マツバの頭の上にはコトネと同じで骨が何本もある番傘が広がっていた。コトネの傘と同じ場所に、やはり紫のラインが入っている。ただし、傘の色は緑色で、サイズも少し大きい。 「マツバさんも、似合ってますよ」 「ふふ、ありがとう。お揃いだね?」 覗き込むようにして告げた青年の顔はなにやら嬉しそうだ。その笑顔も、お揃いという響きも、コトネにとっては意味深に思えて気恥ずかしい。そうですね、と言いながらそっぽを向いて歩き出すと、青年も足を踏み出し、隣に並ぶ。心なしか、笑っているような気配がした。 「コトネちゃんは、雨って好き?」 しばらくの沈黙の後、マツバが尋ねた。 止む気配のない雨脚はしとやかに続いている。 「好きですよ」 水たまりを跳ねるように避けながら、コトネは質問に答えた。 「雨は嫌いって人、多いですけれど、晴れている時にしか楽しめないことがあるように、雨の時だけ楽しめることがあると思うんです」 そういえば、と懐かしむようにコトネは瞳を細めた。 「昔、ヒビキのマリルが…あ、ヒビキっていうのは、隣に住んでる幼なじみなんですけれど、マリルって水に飛び込むのが大好きなんです。それで、雨の日に外に飛び出して水たまりの中にばちゃん!って。私もヒビキもずぶ濡れで、そしたらもう、どうせ濡れてるんだしって雨の中水遊びしてはしゃいでたんです。後で二人とも風邪ひいて、お母さん達にこっぴどく怒られて…。ふふ、懐かしいなあ」 もちろん雨で潰れてしまった行事や計画もあった。けれど、雨の日は雨の日で楽しいこともあったのだ。そう、今日だって。 「今日だって、この傘を使うのが待ち遠しくてたまらなかったんです」 きっとマツバもそうだったに違いない。そう考えながら振り返ったが、そこには青年の寂しい顔があるだけだった。 そういえばさっきからずっと、彼は一言も発していない。 「……もしかしてマツバさんは、雨って嫌いですか?」 マツバと話をするとき、一方的な会話になることは別段珍しいことではなかったが、そういうとき彼はいつも笑ってくれている。 あまり見ない面持ちに少し不安になりながら尋ねると、マツバは一瞬虚を突かれたように瞬きをしたあと、ぼんやりと視線を空へと向けた。未だ降り続ける無数の水滴で、雲も空気も全て境界線を失ったように溶けている。 「そうだな…あんまり考えたことはなかったけれど…嫌い、かも」 傘からこぼれた雫がマツバの前髪で跳ね、彼はまた一つ、瞬きをした。 「雨は、静かすぎるから…。聞こえなくてもいいものまで、聞こえちゃったりするんだ」 聞こえなくていいもの。 どういうことですか?とは聞けなかった。怖かったからではない。深く考える前にマツバが次の言葉を発したからだ。 「でも、コトネちゃんが雨も好きっていうなら、僕も好きになれそうな気がするよ」 「え…?」 「好きな人の影響力ってすごいよね」 まっすぐにコトネを見つめるその表情には雨の日には似合わない抜けるような笑み浮かんでおり、コトネは知らず息を呑んだ。 「えっと…」 言葉に詰まる。 これこそ、どういう意味だろう。というか、ほとんど告白だったように思う。 顔に熱が上るのがわかるが、当のマツバはいつも通りで、爽やかな笑顔を浮かべてコトネを見つめている。 …深い意味なんてないのかもしれない。きっとそうだ。 なんとなく気恥ずかしく、赤い傘をぐるりと回すとコトネは大きく溜息をついた。溜息は一瞬だけ白く染まり、そしてすぐに消える。 「寒い?」とマツバが立ち止まった。そしておもむろに自分のマフラーを外す。 「はい、貸してあげる」 「え!」 「最近、急に寒くなったよね」 これ、近いうちに雪になるかも。コトネちゃんは雪も好きそうだね。 そう笑いながらマツバはコトネの首にマフラーをかけた。傘を抱えるように持ち、くるくると巻いてゆく。 「で、でもマツバさんは」 「僕は平気。それより、コトネちゃんの方が心配だよ。最近、シロガネ山に通ってるんだって?風邪ひかないようにね」 「は、はい。ありがとうございます」 首に巻かれたマフラーはマツバの体温を残していてほんのり温かい。はにかんで礼を言うと、マツバもまた目を細めた。 「コトネちゃん」 しっとりと呼ばれた名前にコトネが声の主を見ると、マツバの大きな手がそっと頬に寄せられた。 「あ、あの、マツバさん?」 「冷たい」 「え…?」 「コトネちゃん、ほっぺすっごく冷たい」 「あ、ほっぺ、え、あ、はい…えっと、マツバさんの手は、温かいですね」 「ふふ、こっちの手は、ずっとポケットに入れてたから」 マツバはにこにこと笑っている。戸惑っているコトネを楽しんでいるかのようだった。 コトネの方はというと、頬に寄せられた体温が気になってうまく言葉が紡げないというのに、整った顔が近づくと、もう息も出来ないくらいだ。 「あ!マツバさん、知ってますか?手が温かい人は…って、あ、すみません、違いました」 とっさに思いついたのは子供の頃聞いた噂話。しかし口に出してから失言に気づくと、尻すぼみに声は小さくなった。赤い顔を俯かせたコトネを、くすりと笑いながら撫でる大きくて、温かな手。 「手が冷たい人は心が温かいってやつ?」 「はい、そうです」 「じゃあ、コトネちゃんの手はきっと冷たいね」 「今日は寒いですから…女の子の手はだいたい冷たいですよ。冷え性なんです。マツバさんの方が…優しい、です」 「そう?温かい手の持ち主は冷たい心を持っているのかも」 「そんなことありません!」 マツバの優しさに、自分がどれだけ救われているか。 反射的に返した言葉が思ったより声が強い調子になってしまったことにコトネ自身驚いて口を塞いだ。彼は冗談のつもりだったろう。軽口に本気になるなんて、おかしな子だと思われたかも知れない。 コトネが不安げに見上げると、マツバは一つ大きく瞬いたあと、晴れやかに破顔した。 「…ありがとう。コトネちゃんのおかげで、心も温かくなりそうだよ」 満面の笑みを浮かべそう告げた目の前の青年に、今度こそコトネは赤面した。 どうしてこの人はこんなことが言えるのだろう。 好きです。 ……なんて、コトネには言えるはずもなく。 「あ、あの、マツバさん。手、繋ぎたい、で、す」 それだけ言うのが、精一杯だった。 「その!変な意味じゃなくて、だから、私も、マツバさんに温めて欲しいなって…手…」 どんどんと勢いが無くなった言葉と、背けた顔。 変な意味って、十分変だ。 どうにも身の置き所が無く途方に暮れかけたそのとき、目の前に大きな手が差し出された。 「いいよ」 手、繋ごう。 にっこりと微笑むマツバに、何故だか泣くなりながらコトネは自分の小さな手を重ねた。 「マツバさんの手、温かいですね」 「コトネちゃんの手は、冷たいね」 歩きづらいのも構わず、雨の中手を繋ぐ二つの影。赤い傘からは紫紺が二本垂れており、一つは少女の首元から、そして二本目、その腕はしっかりと少女の手と繋がれている。 しとやかに降り続く雨は未だ止む気配もなく。二人の体温が溶け合い、繋がった手が同じ温度を持っても、影は離れることはなかった。 「コトネちゃん、傘さして手繋いでると濡れちゃうからこっちこない?」 「えっ!いや、それは…」 「そう?じゃあ僕がそっち入ろうっと」 「ええ!?あ、ちょ、マツバさんっ」 |
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