瓦の欠けた古い家屋で、ポケモンの技による派手な轟音が響き渡った。
ヤマブキ格闘道場。かつては有名な格闘家や空手家を幾人と輩出した有名道場として賑わったここも、師範が修行の旅に出たとあっては閑散とするのも仕方なく、現在はトレーニングをしたい者に開放されている。
つい先程も、少女の持つポケモンが相手のゲンガーを下したばかりだ。

見事勝利を収めた少女は、ポケモンに労いの言葉をかけてボールに戻した。いつもなら、この後は対戦相手とポケモンセンターに行き、雑談しながら傷と疲れを癒して家に帰る。
しかし、エンジュのジムリーダーと再戦した後だけは、その「いつも」がどうにも遂行できないことに、コトネは困惑を感じていた。

「デートしよう?」

今日も、コトネがポケモンをボールに仕舞うのを見計らってから、マツバは声をかけた。
デートという単語に戸惑えば、じゃあ買い物、と言い換えるが、結局彼の中では同じことだ。

「僕の自由時間はコトネちゃんにあげたのに、コトネちゃんの時間は僕にくれないの?」

責めるようにそう切り込まれれば、コトネも頷くより他はない。
こうして、火曜日の夜だけ少し特別な時間を過ごすのも、今日で三度目となっていた。



「これ、この食器ちょっと良いと思うんだけど、コトネちゃんはどう思う?」

マツバに連れられてやってきたのは大通りから外れ、ひっそりと佇む小さな和物屋だった。
「お茶請けの小皿を、この間一つ割っちゃってね」
そう言いながらマツバは一つ一つ丁寧に皿を見繕ってゆく。地元でないヤマブキの、どうしてこんな小さな店を知っているのかとコトネが聞けば、「きみと来たいと思っていたから」と淀みない答えが返ってきた。
「たまにはヤマブキでデートするのも、悪くないでしょ?」
笑顔と共に付け加えられた言葉には素直な好意が込められており、どう応えたらいいのかわからずコトネは困ったように曖昧に笑った。

「よし、これにしよう」

マツバが品を選び終え、意気揚々と店主に声を掛ける。会計が終わるまで、コトネは薄暗い店内をぼんやりと見渡していた。壁に並ぶ華奢な茶器や飾り皿を眺めながら、マツバはどうして自分が好きなのだろうと考えた。

マツバに告白を受けたのは、コトネがカントーに旅立つほんの少し前だ。

古い歴史と伝説を従えた塔が寡黙に守り続ける、赤と黄の空間。
色づいた葉がひらひらと舞いながらも、春のようにうららかな日和だった。

「好きだよ」

青空と同じ、抜けるような笑顔で告げられたとき、コトネの胸は大きく高鳴った。告白はまだ短いコトネの人生の中で初の経験であり、しかも相手が憧れのジムリーダーともあれば気分は舞い上がり、顔は周りの紅葉と同じ色に染まる。
「はい」と応えるのは簡単だっただろう。
しかし、初めての経験だったからこそコトネは慎重になった。流されるのではなく、真剣な思いには自身も真剣に返したいと思ったからだ。
受け止めるか、断るか。
元々異性の好意に疎かったコトネは、マツバが自分のことをそういう目で見ていると気づくはずもなく、もちろん自分もマツバを恋愛対象として見たことがなかった。
好きか嫌いかと問われれば、この優しい笑顔が似合う青年を嫌いだなどと誰が言えようか。だがそれが恋愛感情かというと自信がない。そもそも、コトネはマツバのプライベートをよく知らない。
マツバはいい人だ。それはわかる。
だが、付き合うにはもう少し彼のことを知りたいと思った。

「あの、マツバさん…」

答えは、少し待って頂けませんか。

そう告げようと開いた口を、マツバは制した。
小さく首をかしげると、マツバはまっすぐにコトネの目を見ていった。

「ううん、答えはいいんだ。僕が、言いたかっただけだから」

彼は、笑顔だった。

陽光に照らされ金糸のような髪が明るく輝き、口元には緩やかな弧が描かれている。
青年は笑っている。
秋の少し冷たい風が、落ち葉と共にコトネの身体をすり抜けていった。

優しく聞こえる言葉。
マツバは、コトネの沈黙を困惑と取ったのかも知れない。気持ちを押しつけることで、コトネの負担にならないように、こう言ってくれたのかも知れない。

けれど。
一点の陰りもないその笑顔が、どうしてかコトネに言いようのない違和感を感じさせたのだった。





「コトネちゃん、おいしい和菓子のお店があるんだけど、寄ってかない?」

不意にかけられた声で、コトネの意識は現実に帰った。隣には優しい笑顔。あの日と、同じ。

「あ、はい。えっと、買い物は」
「終わったよ。…何か考え事でもしてた?」
「なんでも、ありません」

茶器が包まれた袋を右手に持ち、それからマツバはコトネの顔を覗き込んだ。
コトネは胸に浮かんだ不審を悟られないように、自然に顔をそらしながら店の出口へと足を向けた。
特に追求することもなく外へ着いてきたマツバに、こっそりと嘆息しながら。

「前に一度寄ったんだけれど、羊羹が絶品だったんだ。この時期なら、栗羊羹がおいしいかもね」
「秋の味覚ですね。秋って、おいしいものが多くて好きです」
「ふふ、コトネちゃんの口に合うといいんだけど…餡は平気?エンジュに紅葉をかたどったまんじゅうがあるんだ、今度そっちにも連れて行きたいな」
「マツバさんって、甘い物好きなんですか?」
「お茶に合うからね」

何の変哲もない、何の違和感もない会話だった。街角で男女が交わすにはあまりにも普通な。

「おっと、段差あるよ」
「わっ」
「危なっ、……コトネちゃん、手、繋ごうか?」
「え!!い、いえ、その、恥ずかしいので…」
「転ぶよりいいと思う」
「あ…」

けれど、ふとしたときに気づいてしまう。拭いきれない小さな違和感。言葉にすることはできず、何かと問われれば口を噤んでしまう、そんな感覚。
今だって、優しく取られた手は温かいのに、嬉しいはずなのに、振りほどくことができない程度の絶妙な強さで握られた力が、影となってコトネの心に波紋のように広がってゆくのだ。



「はい、ここ。コトネちゃんは、どれが食べたい?」

しっかりと握りしめられコトネの自由を奪っていた大きな手は、しかし店に到着するとあっさりと離された。温もりを失った手はきちんと主人の元へと帰ってきたが、それを安堵すべきか寂しいと思うべきなのか、コトネにはわからない。
マツバが示したのはこじんまりとした茶店で、外には赤い縁台が置かれていた。夜も更けてきたという時間帯もあって誰も座っていない。
だがいかにも老舗という店構えで佇む様子は、昼間はきっと活気溢れているのだろうと予想させた。

「あ、やっぱり栗羊羹が出てるよ、コトネちゃん」

嬉しそうに手招きするマツバは人好きする笑みを浮かべている。
釣られてショーウィンドゥを覗き込むと、羊羹は最後の一つだった。

「一個しかない…」
「コトネちゃんにあげる」
「え、そんな、悪いですよ」
「また来週きたときに譲ってくれたらいいよ。僕はこっちの柚のやつにしよう」

マツバは優しい。そのはずだ。
なのに、どうして自分は彼の笑顔を、怖いと思ってしまうのだろうか。
(また来週…)
どうして、優しさよりも強引さが気にかかってしまうのだろうか。

困惑するコトネを知ることもなく、隣でマツバは選んだ菓子を店主に告げていた。どうやら奢ってもらえるらしい。
何の気はなしにその様子を眺めていたコトネだったが、マツバが菓子を持ち帰り用に包むことを頼むと顔色が変わった。

「ここで食べていかないんですか?」
「今日の食器、早く使ってみたいんだ。コトネちゃん、うちへ来ない?」

疑問系ではあるものの、強制的な圧力があった。なにしろ、茶菓子は既に小箱に包まれている。

「…はい」

大丈夫。
そう心の中で呟いてコトネは頷いた。どうしてそんなことを思ったのか、このときはわからなかった。

白髪の交じった店主が小箱をコトネに差し出すと、
「優しそうな彼氏でよかったわね」意味深に笑ってそっと囁いた。
「そうだったら、よかったんですけど…」
コトネが小さな声で返すと、店主はきょとんとした。
そんな顔をされても、コトネだってわからないのだ。胸中では何かが警報を鳴らしている。
「彼氏じゃないのかい、でもあんたたち、お似合いだと思うよ」

コトネは力なく笑った。
店を出ると、コトネの目の前には再び大きな手が差し出された。
「転ばないように」
悪戯っぽく笑う青年の顔をまっすぐ見れないまま、コトネは自分の右手を重ねた。

大丈夫。彼は優しい。不安なんて、ない。





ヤマブキの格闘道場で修行をした後は、リニアに揺られてジョウトに帰る。常ならそこからワカバタウンに戻るところを、今日はフワライドに乗ってエンジュシティへと向かい、マツバの家へと案内された。
エンジュの町を歩けばよく目にする、古い建築様式の家屋だ。

「お茶入れてくるよ。帽子、そこにかけておけるから」
自身もマフラーを外し、壁の突起にかけるとマツバは廊下へ出てしまった。

しっとりと静まりかえった部屋に残されればなんとはなしに心細く、コトネは知らず自分の腕を抱いた。
部屋を眺めると本棚には、マツバが調べていた伝説のポケモンについての本がびっしりと並んでいる。隣には机があり、ここできっと彼は本を読んだに違いない。
コトネはふと、机の側のコルクボードに一枚の写真が張ってるのに気づいた。
鈴音の小道をバックに、二人の男女が笑っている。

「私と、マツバさん…」

コトネがあげた写真だ。マツバから、告白された日。
写真の中の二人は透き通るような空の下で晴れやかに笑っている。コトネはどうしてかそれが心苦しかった。
自分はもう、マツバの隣で同じように笑うことは出来ないかも知れない。
暗く沈んだコトネの心には、マツバの笑顔に言いようのない不審を感じて以来、飲み込めない靄がわだかまっている。
思考は彼方に飛んだまま無意識に写真に手を伸ばすと、突如ドアが開いた。

「ただいま。あそこの羊羹、結構甘めだから、お茶は少し濃いのを選んだよ」

マツバはドアを開け、驚いたように固まっているコトネを見つけるとその手の先に視線を移した。コルクボードにはこの写真しか貼られていない。コトネが何を見ていたかすぐわかっただろう。氷の手で心臓を掴まれたようにコトネは身動きができない。
だが一瞬目を細めただけで、マツバは何も言わずにテーブルに盆を置いた。茶器からはほのかに湯気が立っている。

「冷めちゃうから、食べちゃおう」
「あ、はい…」

解凍されたコトネが慌ててテーブルにつくのとは対照的に、マツバはゆったりとした動作で羊羹の乗った皿をコトネの前に差し出した。


「そういえば、さっき、お店の人と何か話していたね」
しばらくの沈黙の後、茶菓子を口にほおばりながらマツバが尋ねた。何気ない調子だった。
「……優しそうな彼氏でよかったですね、って」
「そう…」
まだ彼氏じゃないけどね、とマツバは俯いて笑った。
静かにフォークが置かれる。それでも、二人っきりの体温しかないこの部屋には、存外に大きく響いた。
マツバの皿の上に、もう羊羹は無かった。コトネの皿の上にはほとんどまるまる残っている。
おいしいと進められた栗羊羹なのに、マツバが譲ってくれたものなのに、どうしてだか喉を通らない。
それどころか、このティータイムを息苦しいとさえ感じている。口内の乾きを感じて、湯飲みを手に取るとちょうどマツバが顔を上げた。

「僕って、優しいと思う?」
「……えっと…」

彼はいつもの笑顔だ。 即答できなかったことが、つまり答えだった。
動揺したコトネを愛しそうに見つめながら、マツバは大きく身を乗り出すと、まるで愛を囁くようにそっと唇を動かした。

「彼氏だったら、よかった?それとも……優しかったら、よかった?」

'そうだったら…よかったんですけど'


ぞわりと、背筋が粟立った。

彼はわかっていた。知っていた。コトネの不安を、茶店でのやりとりを。聞いていた。
それなのに。
暗澹とした空気の中で、彼は笑っている。
それなのに、何か話していたねと、優しいと思う?と、彼は聞いたのだ。コトネの心にある不安を貫くように。

震える手で、コトネは湯飲みをテーブルに戻した。うまく置くことができず、ほとんど飲まれてない茶が零れてコトネの指を濡らす。熱いとは感じなかった。茶はほとんど冷め切っていたし、何より血の気が引いた指先は感覚がない。
マツバが黙って席を立つと、コトネも一歩身を引いた。震えは止まらない。彼はこちらへ来る。

「僕が、君に気持ちを伝えた日のこと、覚えてるかい?」
「……」

マツバはぐるりとテーブルを回って尋ねた。

'答えはいいんだ。僕が、言いたかっただけだから'

輝かしい太陽の下で焼き付いた、マツバの言葉。
優しいマツバの、思いやりの発言。

答えはいらない。そう彼は言った。しかし、それは、つまり。

近づいたマツバを避けるように、また一歩コトネは後ずさった。
その細い腕を、マツバががっしりと掴む。昼間のそれと同じ、冷たい温もりと、逃げられない力強さを持った手。
猫っ毛のように跳ねた飴色の髪の下で、彼の瞳は愛おしいものを見るように心底幸せそうに笑っていた。


「コトネちゃんの気持ちなんか、聞いてないんだよ」



馬鹿だね、コトネちゃん。こんなところまで、のこのこ着いて来ちゃって。

ぐるりと視点が回転し、瞳が見慣れない天井を映しながら、コトネはマツバがそう囁きかけるの聞いていた。呆然と見開いた瞳から悲しみがあふれ出す。
誰か間違いだと言って。こんなのは嘘だって。
べろりと、こめかみに生暖かい感触がした。
誰か、間違いだと…。

けれど結局、コトネの前にはマツバしかいない。

ひやりと首筋をなぞった感触は、ただ冷たかった。


底冷えする