「あ…」 ようやく到着した夕暮れに染まった町。ポケモンセンターへ向かうコトネの足取りが、不自然に止まった。視線の先には見慣れた赤毛が揺れている。 「シルバー、久しぶり」 声の存在に気づいた彼は、いかにもわずらわしいという表情でコトネを迎えた。その冷たい視線に、少しだけ悲しくなる。自分が彼から良い感情をもたれてない…おそらく嫌われているであろうことは頭では理解していたが、こうも態度で示されるとさすがに苦しい。 しかし彼に近づいて、コトネの心は先ほど以上に揺れ動いた。シルバーの腕から、赤い血が滴っていたからだ。 「ど、どうしたの、それ、怪我?」 「別に。さっき森でひっかけただけだ。大した傷じゃない」 本当に何でもなさそうに、彼はひらひらと腕を振った。だが歪に裂かれた布地の間から傷跡が見え、コトネは眉を寄せた。泥がついてよくわからないが、'大した傷じゃない'にしてもこんな扱いではいつ悪化してもおかしくない。 「で、でも血が出てるよ」 「これぐらいほっときゃ治る」 「手当ぐらいしようよ。化膿したら大変だよ」 言いながら、肩に掛けていたバッグを開くと水と包帯と、それから消毒液の入った小さな小瓶を取り出した。ワカバを出る際に母が持たせてくれた、旅の必需品だ。 だがいそいそと治療を始めようとするコトネを見て、シルバーは怒気も荒くその腕を振り払った。 「うるさいな、余計なお世話だっつってんだよ!」 「きゃ」 衝撃で持っていたボトルが転がり落ち、こぼれた水が綺麗に整備された石畳の隙間に染みこんでいった。そのすぐ側ではシルバーの手から滴った赤い液体が歪な王冠を描いている。コトネはつかの間、それに見入った。 「面倒くせぇ。さっきも、ただの通りすがりのくせにお前みたいなこと言ってきた奴がいた」 その赤い跡に、彼は大きく靴を踏み下ろす。 「うざいんだよ、弱いくせに他人を気遣うフリだけは一丁前だ」 ぐりぐりと踏みにじられ、足が持ち上げられた時そこには「何か染みがある」ということぐらいしかわからなくなっていた。 「ポケモンたちだってそうだ。こいつらが使えないから余計な面倒事を背負うことになる。オレの周りにはそんな奴らしかいないのか」 まるで自嘲するようにシルバーは笑った。 その足下にあった彼の傷の証は今はもうない。隠されてしまった。巧妙に。 そのままくるりとコトネに背を向けて去ろうとするシルバーの腕を、コトネはすんでの所で掴んで引き留めた。 「ま、待ってよ」 「触るな」 「あなたどうしてそんなにつんけんしてるの」 「人の勝手だろ」 「…そうやって、とげとげしてるから、シルバーが嫌ってる「周り」にたくさんひっかかるんだよ」 「なんだと?」 「私はいくらひっかかったっていいんだよ、でも、シルバーのこと嫌いだなって思う人がひっかかるのは、嫌なんだよ…。そういう人とは、摩擦が起きるでしょう?」 「何言ってるかわかんねぇ」 「シルバーが、いつかそのたくさんの摩擦で燃え尽きちゃわないか、心配なんだよ…」 自分で言っていて、コトネは混乱していた。コトネは、彼にもう少し優しくなってほしいのだ。 しかし言葉にすればそれは赤子が使う宇宙語のようで、うまく伝えられないことがもどかしい。 コトネの想いは届いただろうか。見上げた彼の表情は暗く、血液と同じ色をした髪の隙間からは「理解できない」といわんばかりの表情が読み取れた。 「面倒くせぇ…」 しばらくして、彼はそう言った。コトネの瞳が伏せられる。鉛を飲み込んだかのように、胃が重かった。 「周りと折り合えって?」 苛々したようにシルバーは続けた。 「折り合って、ロケット団みたいによわっちい奴ら同士でお仲間ごっこに戯れろってか」 「……」 「気に入らないことも飲み込んでへこへこ頭さげたり、お前みたいに敗者を労るフリして見下せって?」 「私そんなこと!」 「うるさいな!!」 激しい感情の波が爆発したかのような声音に、コトネは怯んだ。 「何なんだよお前、甘っちょろい考えのくせに、オレには勝つし、ワタルって奴はお前だけを認めてるし」 「シルバー…」 「オレにもう関わるな!目障りなんだよ!」 シルバーが勢いよく腕を振り払うと、コトネの小さな手も、腕から滴っていた赤い雫もシルバーから離れていった。空を舞う赤。未だ、手当すらされてないその傷。腕だけじゃない、彼の心は傷だらけだ。 何かを痛むように、コトネは瞳を伏せた。震えるまつげが、何かのカウントダウンのように、ただ瞬きを繰り返す。 世界との接し方を知らないシルバー。靴を履くことも知らず裸足で歩いている。 石を踏んでも、ガラスの破片を踏んでも、彼は気にしない。 コトネは、彼にもう少し優しくなってほしいのだった。他人にも、そして自分にも。 「心配するのが、そんなにいけないこと…?」 飲み込んだ涙が吐き出されないように一生懸命になりながら、コトネは声を絞り出した。 「私、シルバーが好きだよ。だから、シルバーが傷ついてることも、知ってるよ」 「何のことだ」 「…今言っても、きっとわからないから、言わない。だけど、手当だけはさせてよ。服だって、染みになるし、破れてるし、シルバー、ソーイングセット持ってないでしょう?」 まっすぐと見上げた瞳はまだ揺れていたが、これにシルバーは沈黙で返した。 相変わらずシルバーにとってコトネの言葉は理解不能なようだった。だが怪我には頓着しないとしても、みすぼらしい服を着るのは趣味ではないらしい。 今度は大人しく腕を差し出したシルバーを見て、コトネは心底ほっとした。 「不気味な奴」 泣きながら微笑んだコトネに、シルバーはは小さくそれだけ言った。 そして意外に器用なコトネの手が、自分の腕に丁寧に包帯を巻き付けていくのをずっと、ただ見ていた。 |
傷だらけの子供達 |