シロガネ山はいつも酷い吹雪で、視界は数メートルもない。白粒舞う景色の中でコトネはまとまらない思考に翻弄されていた。 空の色は相変わらずの鉛色だが、時計を見ると夜が近いことはわかった。旅を続けていれば野宿は慣れているし、ポケモンたちの体力はまだ存分にある。だがワカバで育った少女はこの白濁の粒が身を切る環境に慣れておらず、身体のあちこちが悲鳴を上げていた。今日はここまでにして、立ち往生する前に帰った方が良いかもしれない。そう結論づけるが、いまいちモンスターボールを取り出す気にはなれなかった。何か、帰ってはいけないような、やり残したことがあるような、そんな不思議な感覚が、ホテルの暖かい空気を望む気持ちを押し留めていた。 ふと、雪が止む。止んだのではなく、風向きが変わって先方が明るみに出ただけだ。だが視線の先でコトネは赤い服を着た男の姿を見た。彼もまた、こちらを見つめている。 『トレーナー同士、視線があったら勝負!』 ポケモントレーナーにはそんな暗黙の了解がある。コトネは一歩前へ踏み出した。再び風が吹き荒れるが、どうしてかコトネと青年の間の視界はクリアだ。不思議に澄み渡った空間の中で、青年の動作が細部にわたるまでしっかりと見えた。雪も空気も全て透過されて、自分と相手との間に何も存在しないようだった。青年の口が小さく開き、何事かを呟く。 意味が脳内に消化される前に、彼は手元のモンスターボールを放った。 コトネも懐から取り出したボールを放る。 コトネにとって運命とも言える出会いの、ここが起点だった。 長い―コトネがそう感じただけかもしれないが―時間を掛けて、バトルはついに終局を迎えた。コトネの最後の手持ちポケモンが、悲しい咆吼をあげて倒れる。 コトネの負けだった。 バトルには負けてしまったが、コトネの心は静かだった。全身全霊をかけて戦った、よい試合だっと、コトネは思う。傷ついたポケモンたち労りながらボールに戻すと、一足先に手持ちを戻した青年が近づいてきた。 「やあ、いい勝負だったね。俺はレッド。君の名前は?」 レッドというその青年は微笑むとコトネに手を差し出す。ポケモンを抱きかかえるために屈んでいたコトネを立たせると、被った雪を払ってやった。 「ありがとうございます。私、コトネって言います。ワカバタウンから来ました」 「ワカバタウンか、ずいぶん遠くから来たね」 「レッドさんは?」 「俺は、マサラタウン」 そっちの方がワカバタウンよりずっと遠い、と思うが口にはしない。被ってますよ、と赤い帽子に積もった雪を払うと、レッドが笑う気配がした。つま先立ちを見られたからか。 「コトネちゃん、寒くない?」 レッドはボールを掴むと、リザードンを出した。赤い巨躯が咆吼すると口から炎が吹き出し、雪と混ざり合い湯気となった。寒さにかじかんだ身体にはその熱気が染みいるように伝わった。 「乗りなよ」 「え?」 「町に戻らないと。コトネちゃん、戦えるポケモンいないだろう?」 そうしたのは目の前の青年なのだが、コトネは申し出に甘えてリザードンの背によじ登った。先に登ったレッドが再び手を取り、引っ張り上げる。このあたりのポケモンの凶暴さは、度が違う。レッドの申し出を断っていたらポケモンセンターどころか町に戻るのも困難に違いない。 コトネのポケモンたちと違って元気いっぱいなリザードンは雄々しく羽ばたくと、二人を乗せて飛び立った。 逞しい外見に反して、リザードンの飛び方は繊細であった。雪空の飛び方を知っていると言っても良い。リザードンの生息地は火山近くの気温も高い山肌なので、この飛び方はトレーナーが教えたのだろう。先ほどのバトルといい、レッドの実力の程が窺えた。 「あの、一つ聞きたいんですけれど、いいですか?」 「なんだい?」 「”君を待っていた”って…どういう意味ですか?」 後ろを振り返りながら、尋ねる。背上の動きにバランスを崩すこともなくリザードンは飛行を続けた。 コトネは思い返す。 一面白色に覆われた景色の中で、すべてが雪に吸い込まれる空間の中で、コトネは確かに、聞いたのだ。青年の声を。バトルの始まる直前、青年がこちらを見つめて伝えた言葉は、聞こえるはずのない距離を飛び越え、雪に溶けることもなくコトネに伝わっていた。 君を、待っていた。 コトネが訝しげにレッドを見ると、彼はにっこりと笑い「そのままの意味だよ」と言った。それがあまりにも素直な笑顔だったため、コトネは逆に怪しんだ。コトネ自身、聞き間違いの可能性もあったし、そう言われる思っていた。なのに、彼はそれを肯定する。人を欺くようには見えないが、ならばどうしてあんな人気のない場所にいて、しかも自分を待っていた等と言えるのだろう。 「私が来るのが、わかっていたということですか?」 「まあ、そうとも言えるね」 「実は修験者の方とか」 エンジュのジムリーダーのことが頭に浮かんだ。彼は千里眼だと言う。 「はは、まさか。そうじゃない。そうじゃないけど、わかってたんだ」 「どうしてですか」 胡散臭げに更に言葉を重ねると、レッドは逆に問い返してきた。 「じゃあ、君は、どうしてここに来たの?」 「それは、」 凶暴な野性ポケモンが多数生息するというシロガネ山。生半可な実力では太刀打ちできないというそこは修行にはもってこいと思えた。少なくとも、麓の町で、シロガネ山のことを聞いたときは修行が目的だった。 だが。 「俺がいた場所、ちょっとおかしかったでしょ」 「…はい」 「あそこさ、よくわからないけど外からだと風の都合で見えないみたいなんだよね。たまーにトレーナーが来るけど、みんな俺に気づかない。中に入っちゃうと、風もあんまり感じないんだけど」 そんなところにどうしていたのか、という問いかけよりも。 「どうして、君は、俺を見つけられたのか」 コトネは頷いた。レッドの言葉を飲み込むために必要な儀式のようなものだった。彼は答えを知っている。次の言葉を聞くまでの一瞬の間、コトネは震えた。 「君は、俺に会いに来たんだよ」 暖かな吐息が耳元にかかり、コトネは麓で聞いた話を思い出していた。 赤い帽子のトレーナーが、この山でよく修行をしているらしい。相当な実力者のようだが、彼を求めて山に入っても、誰も見つけられない。 休息のために下山した彼に問いかけても、曖昧に笑って言おうとしない。ただ、待ってる人がいる、という。 シロガネ山のポケモン事情を聞いた際、そんな話も聞かされた。コトネはその赤い帽子のトレーナーにとても強く惹かれ、会ってみたいと思った。何故だか、自分なら会える気がしていた。山に入り野性ポケモンと戦う内に忘れていたが、そうだ、自分はこの男を見つけに来たのだった。 「わかった?」 ぼんやりと考え込むコトネに焦れて、レッドは話しかけた。 待っていた。自分が来るのを。コトネが、見つけてくれるのを。 「…でも、別に、私がレッドさんを探すとは限らないし、それにもし見つからなくて帰っちゃったらどうするつもりだったんですか」 少し膨れて呟くと、その声が届いたのか背後で笑う気配がした。コトネには見えなかったが、レッドの笑顔はその可能性を完全に否定していた。 「それは、絶対にないよ」 「たいした自信家ですね…」 包み込むように回された腕を、体重を預ける。 青年の正体はわからない。だが、長い付き合いになるだろうことは言葉に出来ずとも理解できた。背中から伝わる体温は心地よく、じんわりと胸の内に広まる何かに、コトネはまぶたを閉じた。 ←戻る |