「レッドさんは、どうしてチャンピョンを辞めたんですか」

尋ねるコトネはなんでもないような表情をしていたが、その瞳は真剣だった。そういえば、と思う。つい先日、同じことをグリーンにも聞かれた。会って間もないコトネはともかく、辞めるそのときレッドの近くにいた彼が今更聞いてくることが不思議だった。


『お前、どうしてチャンピョン降りたんだ』
『別に…。理由なんてない』
『なんで嘘つくんだよ。ないわけないだろ』
『じゃあ、なんとなく』
『…わかったよ、まだ早かったってことだな』
『何が』
『もう聞くの面倒くさいから、言えるようになったらお前から言えよ』


唐突に始まった会話は唐突に終わった。機嫌を損ねたかと思ったが、グリーンの表情に怒りはなかった。ただ、何か諦めたような色だけを湛えて、レッドを見つめていた。どうして、と思う。どうしようもない、とも思う。


「理由なんてないよ」

思考は回想を終え、現実に回帰する。コトネも、この答えに不満を持つだろうか。真剣な表情が諦観へと変わるその様を、レッドは見たくなかった。あの何とも表せない切なさに苛まれるのは嫌だった。だがコトネは小さく「そうですか」とだけ答えるとレッドから視線を外した。その先ではレッドのポケモンとコトネのポケモンが戯れている。

「何で、って聞かないの?」

ポケモンたちは言葉なんてなくても、スキンシップで語り合える。人間も、そんな風に簡単だったらいいのに。

「聞きませんよ。それこそ、何で?です」

触れればそれだけで、レッドの思考が全て伝わる。言葉を媒介しない感情は歪むことなくストレートに相手へ届く。

「グリーンには嘘だって言われた」

本当に、そんな風だったらいいのに。

「嘘なんですか?」

コトネが小首をかしげた。ここまでの会話でもうわかっていた。この子はグリーンとは違う。自分と同じものを視ている。レッドは話を続けた。

「嘘じゃないと、思う。あの時は本当になんとなく思って、実行したんだ」
「普通は実行するまでに悩みますけど」
「俺って普通じゃないかな」
「少し変わってるのは事実ですね」

そうか、と呟く。コトネは更にレッド審理する。

「ある日突然、やめようと思った?」

質問の答えはイエス。レッドが頷くと、少女も頷いた。だから、この子が自分を訪ねた理由もわかってしまった。

「コトネも、」

ゆっくりと口を開く。コトネはそれを見つめていた。濡れた瞳が揺れていた。

「そう思ったから、来たんだろう」

耐えきれず、コトネの目から雫がこぼれ落ちた。頬を伝う液体をそっとぬぐうと、温かい。

「レッドさんは、人の心が読めるんですか?」
「読めたらいいな、とは思うよ。それから、読んでもらえたら、って」
「そうですね…、そうしたら、素直に、なれるかな…」
「疲れた?」
「わかりません」

コトネは首を振った。その面持ちは幼く、彼女をとてもちっぽけな存在に見せた。重圧に負けて逃げ出してもおかしくない。自分がチャンピョンを退いた理由は考えてもわからない。言葉に出来ないストレスを感じていたんだろう、と当時の記事には書かれていた。きっとそれも正しい。

「わからないけれど、ふと思ってしまったんです。どうして、ここにいるんだろうって」
「そうか…。俺もあの時、そう思った」
「そうですか」
「うん」

いつの間にか、コトネの涙は止まっていた。悲しくて泣いたわけでも、悔しくて泣いたわけでもない。ただ、言葉にすることの出来ない感情の波が彼女を襲って、それが液体に変換され溢れ出た。そうやって、整理しながら、生きていくんだ。成長していく。レッドは思い出していた。

「レッドさん」
「なに」
「私がチャンピョンを辞めたら、レッドさんの旅に私も連れて行ってくれますか?」
「俺の後押しがないと辞められないの?」
「…そうですね、ごめんなさい。今のは取り消してください」
「いいよ。お願い一回目だ」
「カウントする意味、あるんですか?」
「あとで何か考えておこう」
「レッドさんは、変わってますね」

柔らかく微笑んだコトネを見て、レッドの口の端にも笑みが浮かぶ。それから先ほどの「いいよ」はどちらにでも取れるな、と考えた。コトネとの旅か。悪くない。

だがきっと旅は中止になるだろう。少なくとも、今はそのときではないとレッドは思った。
数日後、コトネから連絡が来た。ポケギアが伝える電波の向こうで、彼女は「もう少しチャンピョンの仕事を続けます」と言った。「そう、がんばってね」と返すと、明るい声が返ってきた。

「レッドさん、ありがとうございます。またお邪魔していいですか?」
「いいよ。おいで」

質問の答えはイエス。そして、お願い二回目だ。魔法使いは三つの願いを叶えてくれるという。三つ目は、俺が使っても良いだろう?
迷子になったコトネの道をレッドが照らしたように、レッドが生きるためにもまた、コトネの存在は必要不可欠だ。

待ってるよ。だから、君が、君の役割を終えたら俺と旅に出て欲しい。

今はまだ叶わないその願いを胸にしまうと、レッドは電話を切った。久々に、すがすがしい気分だった。


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