きみに出会うまでは、
一人を孤独と感じたことはなかった。



夜の帳が落ちたワカバシティ。静寂に包まれた部屋で鳴り響いた電子音を、コトネは最初、目覚ましのアラームだと思った。音はすぐに止み、辺りは再び静まりかえる。そのまま夢の世界に戻ることはあまりにも簡単だったが、コトネはふと、先ほどの音がアラームではなくポケギアの呼び出し音ではないかと思った。
苦労してまぶたを持ち上げると、カーテンが月の光を吸収してしとやかに輝いている。やはり朝の目覚ましではない。壁に掛かった時計に目をやれば、まだ夜中だった。
「誰だろ…」
コトネはのろのろと枕元に手を伸ばした。
こんな時間に電話を掛けてくるような人物に心当たりはない。だから、ポケギアに表示された名前にコトネはとても驚いた。急いでかけ直すと、少し低めの、聞き慣れた声がすぐに出た。

「もしもし…」
『…コトネ』
「レッドさん、どうしたんですか?一体」
『…ごめん、寝てた?』
「平気です。レッドさんこそ、何かあったんですか」

コトネが問うと、わずかな沈黙の後にレッドが答えた。

『…今から会いたい』
「え」
『―って言ったら、どうする?』
「…」

つかの間、コトネは逡巡した。
レッドの声は平静だ。いつもと同じ、コトネを呼んでくれる、少し掠れていて、落ち着いた感じのする、コトネの大好きな声だ。
けれど。
ただ会いたいと言うレッド。付き合ってからいくらか経つが、こんなことを言われたのは初めてだった。冗談めかしていてもコトネはレッドが本気だと感じ取っていた。そしてそれがどこか異常を示していることを。
そもそも、こんな夜更けにレッドが電話を掛けてくることが既に異常事態だ。

「レッドさん、今どこにいるんですか?すぐ行きます」

コトネは決心した。電話を抱えたまま立ち上がり、コートを手に取るためクローゼットを開ける。電話の向こうでは「本当?」と小さな声が喜んだ。

『ありがとう、コトネ』
「いいんです、それで、今どこに」
『…窓、開けてみて』

実はもうコトネの家に前まで来てるんだ。

既に気ばかり焦っていたコトネはその言葉に飛びはねた。窓へ駆け寄り、勢い開くと冷え冷えとした冬の空気が容赦なく吹き込んで部屋の温度を下げる。
そして風の通り過ぎた向こう、見下ろした先には。

「こんばんは」
「レッドさん…」

赤い帽子を持ち上げて、レッドは薄く笑った。真っ白な吐息。それが寒さから来るものだけではなく、身体の運動がもたらす呼吸の乱れだと、どうしてわかったのだろう。
「そっちに行くね」
「え、あ、はい」
コトネが見ている前で、レッドは器用に塀を昇り屋根を伝ってすぐ目の前まで来た。身軽な人だ。
「よかった…抱きしめていい?」
わざわざ聞かなくてもコトネが拒む理由などない。今日に限って断るレッドはやっぱりどこかおかしいと思った。黙って頷くと、レッドは意外にたくましいその腕でコトネを包み込んだ。コトネが思った以上に、力強く。
「あったかい」
「…レッドさんは、冷たいです。どれくらい外にいたんですか?」
レッドの身体は首筋に触れた頬も抱きしめた背中も冷え切っていて、コトネは眉尻を下げた。
「さあ…忘れたよ」
「忘れたって、」
「…コトネに会うまで、ずっと寒かった。いや、コトネに会ったから、かな」

何かに。あるいは空気を凍らすような冷たい風から身を守るように、レッドは一層コトネの首筋に顔を埋めた。

「きみに会うまで、夜をこんなに寒いと感じたことはなかった。寂しさがこんなに辛いなんて知らなかった」
「レッドさん…」
「コトネ、好きだ」
「私も、ですよ」
「こんなに好きなのに、一日中きみのことばかり考えているのに、隣にはきみがいない。それが、とても理不尽に思えるよ」

寒さからか、レッドは震えていた。いや、たとえ今日が夏日がもたらす熱帯夜であったとしても、きっと彼は震えていただろう。
涙という液体を流さなくても、人は泣くことが出来るのだとコトネは思った。こんな形でしか泣けない彼が切なかった。
言葉を無くしてしまった代わりに、黙って抱きしめた腕に力をこめると、腕の中で青年が震えた。

「うん…今は、寒くないよ」

だから離さないで。オレも、離さないから。

レッドが呟いた言葉は冬の冷たい大気に儚く溶けて消えた。
同じように、恋人に触れられ熱を帯びたはずの身体さえ、この男の底冷えする身体に全て吸い込まれてしまうようだとコトネは天を仰いだ。



あいたくて