東の空が白み始めていた。
ふと歩みを止め、澄んだ空を振り仰ぐと、既に星は消えている。藍は紫紺との境目を曖昧に残しつつ、夜の濃い方へと集まっていた。
森の中にもいくらか光が差し始め、ずいぶんと歩きやすくなった道をただ黙々と進む。
夜行性のポケモンは眠りに落ち、昼行性のポケモンはまだ微睡んでいるこの時間、野性のポケモンを警戒することもなく、俺は幾分リラックスしながら町を目指した。

木漏れ日の道が舗装された道路へ変化した頃、海へと下る町並みの最奥に大きな客船が入港しているのが見えた。
以前グレン島へ渡った時より、ずっと大きく、立派だ。
不思議に感慨深く、そのまだ模型のような大きさの船を眺めながら、これからのことを考えた。
そして、これまでのことも。
わざわざこの町へ歩いてやってきたのも、妙な感慨がなせることなのかもしれなかった。
しばらくそこで立ち止まって思いを巡らせたあと、俺はついに歩き始めた。

早朝の空気が肌を撫でる。寒いのは嫌いじゃない。人通りが少ないのも、悪くない。
誰もいない大通りを、せっかくだからと真ん中を歩いていると、自分と同じように道のど真ん中に突っ立っている影が現れた。
それを誰だか認めたとき、複雑な嫌悪感、疑問、そして一つの感情。たくさんのものがない交ぜになって、酷い表情をしていたに違いない。
俺が立ち止まると、向こうも顔を上げた。

特徴的な白いキャスケットから、挑むような瞳が覗いていた。



「どこへ行くんですか」
むっすりと歩いてきた彼女は俺からほんの少しの距離で止まった。
「どうしてここにいるの」
「それはこっちのセリフです。こんなところに何のようですか?今日は、外海へ出る船しかないですよ」
「それが用だよ」

言い捨てた瞬間、栗色の髪に隠れた瞳が炎のように揺らめいた。あるいは海のように。
泣くかな、と思った。それが嫌だから、何も告げずに来たというのに。

「どうしてっ」
叫ぶように彼女は言った。

「どうして、何も言ってくれなかったんですか」
彼女にとって当然の訴えだった。俺はそれに沈黙でもって返した。

だって、言ったら泣くじゃないか。

俺が黙っていると、彼女は何かをこらえるように俯いた。
震えた細い身体が可哀想で、しかし抱きしめることなど出来るはずもなく。

ああ。
だから嫌だったのに。

深い溜息をついて、行き場のない右手を黙ってポケットに入れた。
誰が教えたか知らないが、一番知らせなくてはいけない人に何も告げなかったツケが、これだった。

コトネに最後に会ったのは三日前。その時でさえ、俺は旅のことはなんら感じさせず、いつものようにコトネに接した。
言っても言わなくても、きっと彼女は泣く。
わかっていた。
強いように見えて、俺には脆さも見せてくれていたから。
ああ、わかっていたさ。
けれど、自分が彼女の涙を見たくないという理由だけで、俺は黙って出てくることが出来た。
酷く勝手な、わがままだった。


空は明くなってきたが、西の空にはまだ夜が蔓延り、町はひやりとした空気に呑まれている。
汽笛が鳴った。
出航の時間まではまだある。
だが、俺と船の間にはコトネが立ちはだかっている。
突然、コトネが顔を上げた。

「わ、たしは!」
まるで一切を捨てるようにコトネが言った。涙さえ。

「わたしは、レッドさんのことが好きです!」

……酷い、不意打ちだと思った。

射貫くように、まっすぐと俺を見つめる瞳から逃げられるはずもなく。

「……知ってる」
「どうして何も教えてくれなかったんですか」
「きみが、泣くと思ったから」
「……泣いたら、行かないでくれるんですか」
「それは出来ない」
それだけは、出来なかった。誰に何を言われても、俺の旅を止められるのは俺だけだ。
「……わかってます、それくらい。わかるくらいには、一緒にいたと思うんです」
「うん」
「見送りくらい、させてください」
「うん。…ごめん」
「……」
「ごめん」

意識外で伸ばされた手を頬に添え俺が謝るとコトネはようやく柔らかく微笑んだ。今にも涙が零れそうな瞳を除けば、だいたいいつものコトネだった。
どちらからともなく手を繋いで、港までの通りをゆっくりと歩いた。
遠く、祭り囃子のように船乗り達のかけ声が聞こえていた。
長いようで短い距離だった。



港に入れば、船はいよいよ大きく、繋いだ手に力が込められた。
こんなにも暖かい手を、離すときが来る。

「コトネ、俺もキミが好きだ」
「…もう少し早く、聞きたかったです」
「そうだね。でも、ありがとう」
「何がですか?」
「いろいろ」
「いろいろってなんですか、もう」

くすりと笑みを零したコトネに俺もゆっくりと笑った。
完全に明けた空の下、突き抜けるような青い空に、太い煙突から蒸気がたなびいていた。
やがて、大きく汽笛が鳴る。
「時間ですね」
「うん」
「……」
「たまに電話する」
「毎日してください」
「無理」
「……」
「コトネ、」
「はい」

「一緒に来る?」

意地悪で、今更な質問だった。

「……行きませんよ。私にはチャンピョンの仕事がありますから」

そう答えることも、わかっていた。
「ご苦労なことだね」
自分と違って、仕事を真面目にこなしているらしい彼女に、ほんの少しだけ憧憬の念を抱くが、困ったように瞳を伏せる彼女を見て、やはり意地悪な質問だったと思う。
「がんばって」
「もちろんです。レッドさんも、体に気をつけて」
「うん」
「それじゃあ……」

いってらっしゃい。

告げられた言葉と共に温もりを失った手が、寂しそうに揺れたコトネの瞳が、思った以上に辛かった。
だから。

「コトネ」
「なんです、か、」

離れた腕を、再び引き寄せて。
その、柔らかい唇に自分のそれを重ねて。

「……」
「行ってきます」

それだけ言って、するりと俺は船へ掛けられた階段を駆け上がった。
呆然としていたコトネが、顔を真っ赤にして酷いとかずるいとかなんとか言うのは、全部風で聞こえないふりだ。
甲板の上から手を振ると、不承不承といった様子でコトネも手を振った。
そんな表情ですら、愛おしいと、切ないと思うし、あの手の温もりも当分は触れられない。
全て自分が選んだ道だ。

この青空の下で、コトネが流した涙も、しばらく忘れられなそうだ。
パドルが回転を始め港を離れるまでずっと、そんなことを考えていた。


空色の恋