静かに波寄せる浜辺を、太陽が穏やかに照らしていた。長く伸びた二つの影が、ゆっくりと進む。後方を歩く影の方が、少し大きい。
スローモーションのように濃密に圧縮された時間の中で、ワタルは満ち足りていた。二人はたわいもない会話をしては、ふと途切れる音に心地よさを感じ、そしてまたぽつりぽつりと会話が始まる。日は傾いている。時間の感覚は彼方へと消えていた。
砂浜に足跡が二人分だけ残っていた。いつも彼女の後ろをついてきたポケモンも、ワタルのドラゴンも今はポケモンセンターで休養中だ。
再び訪れた沈黙の中で、ワタルはつい先のバトルを思い返す。頂点をかけて、お互い全力で戦った。見事なバトルであったそれを、ワタルは詳細違わず脳裏に浮かべることが出来た。
コトネはポケモンたちの隠れた才能をよく見いだしていた。それぞれのポケモンたちに合った育成をし、そして育てた方向性に見合った戦略を立てた。ワタルとてチャンピョンであり自身が育てたカイリューに自信をもっていたが、彼女はそれを打ち負かしたのだから、自分にもまだまだ未熟な部分があったと言うことだろう。負けるのは好きではないがワタルの心は浜辺に打ち寄せる波と同じく、穏やかだった。全力を出し切った戦いは自分にとっても相手にとっても良い影響を与えることを、ワタルはその人生の中で経験として知っていた。
生まれたばかりの新しいチャンピョンは、潮風に吹かれながらワタルの前を歩いている。地平線を見ると、太陽はその残り火で精一杯人々を照りつけており、ワタルは目を細めた。明日も、きっと暑くなるだろう。

「その、コトネちゃんっていうの、やめてもらえませんか」
前方で砂を踏む音が途絶えた。ワタルが視線を太陽から戻すと、彼女は歩みを止めていた。ちらりとワタルを見て、それから波打ち際を見た。乱反射した光でコトネの瞳が複雑に揺れた。そんな彼女を美しいと思いながら、さあどういう意味かと思案する。なんでもない会話のようで、きっとこれは彼女にとって重要なことなのだ。
さくり。砂が鳴いた。彼女は歩き出す。ワタルも、その後をゆっくりと追った。
コトネの意図するところはなんとなくわかる。おそらく、子供扱いされたくないとか、そういうことだろう。認めてもらいたいのだ。
ワタルは口の端に笑みを浮かべた。コトネがどう考えているかはともかく、ワタルにとってコトネは大事な人でありとっくに一人の女性として見ている。でなければ二人っきりで夕暮れの浜辺を歩く理由があるだろうか?
あるいはコトネは自分のことを誰彼構わず声をかける非常に節操のない人間だと思っている…、という可能性も浮かんだが、それについてワタルは考えたくなかった。馬鹿馬鹿しい。フスベにいる一族の娘の姿が浮かんだ。自分をよく慕っている。コトネに不安を与えているとしたらきっと彼女だ。
とにかく、ワタルはコトネのことを保護対象としてではなく恋愛対象として見ていた。そしてそれが伝わっていないことは理解できた。
コトネはの表情は見えない。彼女が前を歩いているからだ。ワタルが隣に並ぼうとすると気配を敏感に感じ取りスピードを上げた。だがワタルが諦めると、コトネの足取りも緩む。その様子が、ワタルには何か拗ねているように感じられた。
「そうだな…」
頭の中で考えをまとめる。もちろん、彼女の望みなら、呼び方を変えるぐらいはどうということはない。その結果、ふてくされた表情ではなく笑顔が得られるというのならばなおのこと。
しかし、そこでほんの少しの悪戯心。
「コトネちゃん」
大きめに踏み出すと、足下で砂がざわめく。今度は簡単に追いついた。覗き込んでも、逃げることもない。夕日を背負ったコトネの顔に触れると、歩を進めることは不可能だった。少しふてくされた様子の彼女に内心苦笑して、口づけそうなほどに顔を近づけた。

「コトネちゃんが、オレのことを『ワタル』って呼べるようになったら、オレもコトネちゃんの言うことを聞くよ」

自然、口角がつり上がった。対照的にコトネの眉尻は下がり、困惑が伝わってきた。
そんな、と呟く情けない声に笑いをかみしめながら、ワタルは自分の名前を呼ぶよう促してみる。彼女は声にならない呻き声を上げながら頭を垂れた。
「今は、無理です」
「どうやらそのようだな」
「…ワタルさんは、ずるいです」
「君がオレと対等になりたがっているから、オレも対等な条件を出してあげただけだよ」
その言葉に、コトネの顔が跳ね上がった。黒い瞳には驚きの色が浮かび、そしてバツが悪そうに歪んだ。まったく、君の考えることぐらいお見通しなのさ。
「せっかく、チャンピョンになったのに…」
「もしかして、言うの我慢をしたのかい?オレに勝つまで?」
その言葉に、ますますふてくされた様子でそっぽを向く。その様子に笑みをかみ殺しながら、ワタルはコトネの頭に手を伸ばした。
「今度、練習でもしようか」
「練習?」
「うん」
言いながら、いいことを思いついた。
彼女はきっと恥ずかしいと拒むだろう。けれど、それを見るのも、また自分の楽しみだから。
ふわふわした髪を撫でると、また子供扱いして!と彼女は口をとがらせた。


←戻る