久しぶりにワタルから連絡が入ったのは日も暮れ暑さも気勢を削がれてきた時分であった。着信を伝えるメロディーにポケギアを取り出すと、画面に表示された名前にコトネの心臓は跳ねた。電話の内容は夕飯の誘いで、今からコガネのレストランに来て欲しいということだった。一字一句、聞き漏らさないように耳を澄ませていたコトネはその誘いに更に頬が緩む。
ワタルは忙しい。理由の大部分は、コトネがチャンピョンの職を辞退したことにあった。その際、面倒くさい手続きやらなにやらがコトネの前にそびえ立ったが、そういうことはワタルが一切を引き受けてくれた。その手際の良さは、まるでコトネが言い出すことを、承知していたようだった。前にも同じことを申し出た人間がいたらしいというのを、コトネは後から知った。
それでも、何も言わずに引き受けてくれた彼の優しさが嬉しく、また申し訳ないと思う。会いたい気持ちはあったが、ワタルが忙しいのは自分のせいなのでコトネはずっと我慢していた。彼と最後に話したのはいつだろうと思う。だがすぐそんなことはどうでもよくなった。思い出より今を駆ける少女は、乱暴に荷物をバッグに詰め込むとすぐにコガネへ飛び立った。

待ち合わせの場所の上空に着くと、遠目にも夕闇の中でオレンジの巨体を見つけることが出来た。隣にたたずむ青年はコトネに気づくと、柔らかく微笑んだ。大きく振られた手に胸がじんわりと暖まる。
「すみません、遅くなってしまって」
「かまわないさ。それに、君が遅れたんじゃなくてオレが早く着いたんだよ」
「ワタルさんはこの近くにいらしたんですか?」
「いや、遠かったけどカイリューががんばってくれた」
ワタルは隣のオレンジ色を撫でた。そして
「オレがコトネちゃんに早く会いたかったのを、わかってくれたみたいでね」
なんでもないことのように付け加えた。ワタルはいつもこうだ。深い意味が、あるのか、ないのか。どう受け止めて良いのかわからなくて、コトネは曖昧に笑った。嬉しくて心は舞い上がっているのに、それを聞くのは怖かった。
たわいもない話をしながら、レストランへと歩む。着いたお店はコトネが想像していた以上に素敵な場所で、立ち入ったことのない雰囲気に少し気圧された。メニューには値段が書いていなくて、これもまたコトネを狼狽させたが、ワタルはいつも通り平然としており、自分にはワインを、コトネにはジュースを頼んでくれた。大人だな、とコトネは思う。
ジュースも、運ばれてきたご飯も、コトネの好物であり、とてもおいしかった。ワタルに好きなものを話した記憶はないので、彼が自分のために選んでくれたか、それか、もしかしたらワタルは自分と好みが似てるのかも知れない。そう考えると、少し嬉しい。これもまた、とても本人には聞けないが。

食事が終わりお互いの近況報告も済むと、ワタルは鞄から一抱えほどの何かを取り出した。
「今日は、君にこれをもらって欲しいんだ」
丸い物体がテーブル上に置かれると、コトネは感嘆の溜息をもらした。艶めく白に、流れるような青が刻まれているそれは普段目にするものとは少し毛色が違うが、ポケモンの卵だと言うことがすぐにわかる。
「もしかして、これカイリューの?」
白にたゆたう青の線がどことなくミニリューを彷彿とさせる。上目遣いで窺うと、ワタルは嬉しそうに微笑んだ。コトネの目がいっそう輝く。
「これ、いいんですか?」
「ああ。仕事で空けてる間、竜の穴でしばらく遊ばせていたら見つかったんだよ。綺麗だろう?」
「はい、とても…」
触って良いですか、と差し出した手に、ワタルはもちろんと答えた。持ってみると、思ったよりも軽い。カイリューのたまごということは生まれてくるのはミニリュウだが、赤ちゃんとは言っても、れっきとしたドラゴンだ。生まれてくればかなりに大きさになるはずなのに、不思議に重さは感じなかった。ひんやりとしていて、気持ちいい。
「その子が生まれたら、ワタルって名付けてもらおうと思ってね」
「ええ!?」
美しい卵に見とれていたコトネはワタルの言葉にあやうく卵を落としそうになった。
「おっと、大事にしてくれよ」
「す、すみません。いえ、あの、今の」
「それで練習したらいい」
練習?予想外の言流れに小首をかしげたコトネに、ワタルは苦笑した。
「もう忘れてしまったのかい?オレのこと、名前で呼んでくれるんだろう」
「あ、」
なるほど、とコトネは納得した。まずは本人ではなくポケモンに向かって呼んでみろ、ということらしい。しかしそれは…。
「あの、なんか、それってワタルさんを呼ぶより恥ずかしいような」
「別に嫌なら無理強いはしないよ。'コトネちゃん'」
「…」
ワタルはテーブルの向こうで意地悪そうに笑っている。実際に、意地悪だ。生まれてくるミニリュウはきっととっても可愛くて、素直で、愛らしいのに、どうしてその子にこんな傍若無人な人の名前をつけなくてはならないのかと思うとコトネは少し腹が立つ。しかし、そんな人を好きになってしまった自分がいるのは、もっと悔しいとも思う。
「わかりました」
しぶしぶ頷くと、ワタルは満足した様子で立ち上がった。荷物を手に取ったのを見て、コトネの目が丸くなる。
「もういっちゃうんですか?」
「ああ、悪いね。夜までにクチバまでいかなくてはならないんだ。リニアの最終便がもうすぐ出る」
そんなつもりはないのに表情には寂しさが出てしまったようで、ワタルは困ったようにコトネの頭に手を伸ばした。彼が忙しいのはわかっているので、頭を撫でる優しい手にだけ意識を集中させて、コトネはその気持ちを追い出した。
触れられていた温度が、離れて溶ける。
「それじゃあ、またね。コトネちゃん」
「はい。お気をつけて」
顔が曇らないようにするのは至難の業だったが、精一杯がんばって笑顔で送り出す。次にいつ会えるかわからない。せめて、次回の約束をしたかったが、コトネにはまだ無理だ。
「あ、そうだ。その卵」
言われて、首をかしげる。ワタルは既にカイリューの背にまたがっている。
「見つかってから結構時間が経ってるから、もうそろそろうまれてくるかもよ」
口の端に笑みを浮かべた青年を見て、手の中のたまごに視線を落とした。自分の腕の中にいる、小さな命。そうだ、ワタルは今日、この子をくれた。カイリューの卵なんて、滅多見つかるものではないだろう。それを、他の誰かじゃない、自分にくれたことが、コトネを微笑ませた。
「ワタルさん!」
「なんだい?」
「この子が生まれたら、連絡して良いですか?」
「もちろんさ」
そう快活に笑うと、コトネの大切な人は星光る空へと消えていった。


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