見上げれば満点の星空だった。ワカバでも、こんなに見えるかわからない。旅に出なければ知らなかった感動を、コトネはたくさん見てきた。見知らぬ匂いの風に吹かれながらそれを思い返す。 ふと、天に手を伸ばした。星は遠い。背伸びもしてみたが、やはりコトネには届かない。 アスファルトのステージの上で高く掲げた手を仰いでいると、視界にひょっこりと顔が現れた。 「わ、」 「やあ。こんばんは」 コトネの腰を抜かせたのはワタルだった。 「ワタルさん…?どうしてここに」 「夕方話したときにエンジュを出たところだって言ってたから、このあたりかと思って」 どうして探していたのかという部分には触れずにワタルは答えた。そして腕を伸ばしたまま固まっているコトネの姿を見て「何してたんだい?」と首をかしげた。言われてコトネは薄く頬を染め、腕を下ろした。この人はいつもなんてタイミングなんだろう。良い意味でも悪い意味でも。いつかの時のように、見計らっていたのではないかと思う。 「星空がすごかったので、捕まえられそうだと思って」 「なんだ。俺に手を振ってるのかと思ったよ。で、捕まえた星はどこにいるんだい?」 「意地悪ですね。当たり前ですが届きませんでした」 二人は星空を仰ぐ。周りに明かりもなにもない世界で、地平線の先まで星が輝いていた。 すごいな…、とワタルが隣で感嘆した。 それを耳にしながら、コトネはぽつりと呟いた。 「私の背じゃ、届かないんです」 頭を振りながら、コトネの視線は伏せられた。 「チャンピオンになるのを断ったこと、怒ってますか?」 「いいや」 ワタルは間を置かず返した。コトネのSOSは続く。 「…無理なんです、本当に、私には…」 「小さいんです、ちっぽけな存在なんです」 チャンピョンという大きな壁を破ったというのに、今度はその重圧に負けそうになっている。何も出来ずに、ただ喘いでいる。人々の期待の視線。そんなんじゃない。そんなつもりはなかった。そんな、こんな小さな人間に、何が出来るというのか。自分にはとても勤まらない。ワタルのようにはなれそうもない。 コトネは胸に貯めていた淀みを、ぽつりぽつりと吐き出していった。隣の青年は黙ってそれを聞いている。何か言ってくれたらいいのに、と思う反面、何かを言われたらどうにかなってしまいそうな気がした。こんな情けない自分に負けて、彼は怒るだろうか。 「ごめんなさい」 自然、口からは謝罪の言葉が漏れた。いろいろな意味が含まれている言葉だった。 隣の青年は無言でコトネを見つめていたが、コトネが謝ると一度目を閉じ、開いた。それから、ゆっくりと両手を前に差し出した。 「コトネちゃん、手をだして」 コトネは唐突な申し出に疑問に思いながらも、素直に手を重ねた。大きな手がコトネの細い指を包み込む。ひやりとした感触に、ぎゅっと目をつむった。大きさも、温度も、こんな細かい部分でさえ、自分と彼とはあまりにも違う。 「小さい手だね」 ワタルが呟いた。コトネは泣きたくなった。 「私、大きくなりたいんです」 背伸びした星空には全然届かない。 「もっと大きく、広がって、たくさんのものを受け止められるようになりたいんです」 抑えられない感情の波が涙となってコトネの瞳から溢れ出た。この人の前だけでは泣きたくなかった。けれど、それももう遅い。どうして自分の手はこんなに小さいんだろう。今だって、この奔流を押しとどめることすら出来ない。こんな小さな手では無理なのだ。 「大きくなるがいいことなら、小さいことは悪いことなのかな」 泣いている子供を静かに見つめながら、ワタルは言った。言っている意味がわからなくて、コトネは青年の顔を見上げた。あたりは暗かったが、星明かりの下でワタルが微笑んでいるのがわかった。 「コトネちゃんのこの手でも、できることがある」 「たとえば?」 「たとえば、俺の手を暖めることが出来る」 「そんなの…」 「大事なことだよ」 力強くワタルは言った。誰かの手を温めることが重要なことだなんて、とてもそんな風には思えない。コトネにもできることは、誰にでも出来ることだ。自分に求められていたのは、チャンピョンにしかできないことだった。 「コトネちゃん、きみはまだ小さい。小さいなりのものしか受け止められない。君が泣いているものだって、大きければ受け止められるよ」 けれど、大きくなれば手に入らないものもある。ワタルはそう続けた。 「俺も小さい頃、やっぱりコトネちゃんと同じように星の手を伸ばしたことがある。そして同じように、届かなくてがっかりした」 ワタルにも自分と同じ子供の時代があったという事実に、コトネは驚いた。見開かれた瞳から残っていた雫が伝い落ちた。当たり前のことなのに、考えることすらなかったことに気づいて思考はぐるぐると回り出す。 コトネの今は、ワタルの過去だった。もうワタルは届かないとわかっていて手を伸ばすことはしない。叶わないと知っている夢を追いかけることもない。 それが大人になるということだと、なんとなく理解していた。 だから、今を大事にしなさい。そう言うワタルの、コトネを思う優しい気持ちが伝わって穏やかな心持ちになれた。星空と同じ、少し冷たくて遠いのに、見守ってくれている彼が眩しい。 ああ。 コトネは思った。 自分はきっと、この人が好きだ。 「ちょっと説教臭かったかな?」 ワタルは笑った。 「いえ、ありがとうございます」 だからコトネも涙を拭いて、精一杯微笑んだ。 いつか星にも届くように。 二人の影は星照らす薄明かりの中で、静かに佇む。 ←戻る |