『あなたのような考え方では、ポケモンリーグ挑戦なんて無理に決まってるわよ』

どうしてですか、と食い下がったのがいけなかったのか。だが正々堂々とバトルで勝利しているのにこの扱いでは、いくらコトネと言えど憤慨したくもなる。
『私は絶対チャンピョンになります!』
コトネが噛みつくと、イブキの目はますますつり上がった。そして、

『あなたなんかが、チャンピョンであるワタル様に適うわけないでしょう!』

知るはずもなかった真実に怒ることも忘れ、コトネは凍り付いた。


フスベの夜は早い。枯れた山間に拓かれたこの町は、その住民もまた周りの自然と同じように静かに生きているようだった。だがコトネにはそれが、細々と暮らしているというよりは、しとやかに鎮座し黙して獲物を狙う、大きな大蛇のように感じられた。
「ドラゴン使いの里か…」
呟いた言葉は重く、溜息のようでもあった。長老が特別に用意してくれた宿はフスベを一望できる高台にあり、窓を覗くと竜の穴もポケモンジムもよく見える。夜空の下で民家が彩る灯りを眺めればそれは美しい光景だったが、コトネにそれを楽しむ余裕はなかった。頭の中では、昼間、イブキに教えられた事実が未だぐるぐるととぐろを巻いている。
言われた意味を理解し飲み込むには、思った以上の時間と労力が必要であった。

「――リーグチャンピョン、ワタル」

試しに呟いてみる。自分の口から出た言葉だというのに、とてもそうは思えない。何かおかしな感じだ。ぐるぐると回る思考がその黄色い瞳で睨み付けると、内蔵は活動を止めてしまったようだった。酷く気分が悪い。悲鳴はどうして、と言っていた。その反面、どこかで納得する自分もいる。
コトネはゆっくりと息を吐き出した。大蛇を睨むと、その姿は赤く変化する。ギャラドスだ。
いかりの湖…チョウジタウンのロケット団アジト…。
コトネは順に、記憶を辿っていった。
幹部の女性に追い詰められ、絶体絶命だと思ったあの瞬間。突如現れたカイリューは勇ましいその巨躯で敵を退けてくれた。よく育てられたカイリューと、トレーナーの的確な指示。そういえばあの時彼は、コトネの戦いぶりを見ながら「出番を待っていた」と言っていた。
コトネの戦いを、観察していた。
彼がどことなく人とは違う空気をまとい、そしてコトネを見る目もどこか試しているように感じたのも、すべて彼がチャンピョンだったせいだ。

『コトネちゃん』

自分は確かに、試されていたのだ。

『ポケモンマスターへの道は長く険しいという…。』

再び、彼と会う資格があるかどうか。自分が、コトネが、

『それでも、目指すのか?』

セキエイ高原で、彼とまみえる実力の持ち主たる人物かどうか!


しばらくして、コトネはゆっくりと立ち上がった。もう蛇はいない。いや、蛇などではなかった。ナイトテーブルの上に転がっていたポケギアを手に取って、教えられた番号を押した。
雲間の途切れた空から月が覗いた。部屋に差し込んだ冷たい光が、コトネの何かの決意を湛えた表情を白く照らし出した。



ポケギアが電話の着信を伝えたとき、ワタルはセキエイの自室にいた。自室と言っても、そこにいることはほとんどない。ワタルの実家はフスベにあるが、かといってそちらにいるわけでもなく、ただチャンピョンという理由でセキエイに縛り付けられるのを疎んで各地を回っていた。
リーグ開催の知らせはポケギアで伝えられ、そのときはカイリューに乗って高原へと帰る。仕事をしにいく。
そんなワタルがセキエイにいるのは、先日会った少女のことがあったからだ。数年前にも、やはりあのくらいの年頃でリーグに挑んだ子供がいた。懐かしくなって、記録を調べにきたところだった。ワタルには、コトネがいずれここへくるであろう確信があった。

ポケギアを開くと、知らない番号からだった。首をかしげる。

「もしもし」

返事はなかった。この番号を知っている人間は多くないが、どの顔を思い出してもこうして悪戯電話を掛けるような人物にも、気軽に外に漏らしてしまう人物にも思えなかった。
間違い電話か。そう結論づけてスイッチを切ろうとすると、

『…、ワタル、さん』

電話が切れる直前。スピーカー越しに聞こえた声に、ワタルは大きく息を詰めた。
同時に脳裏には一人の少女が浮かぶ。むしろ、彼はいかりの湖で彼女に出会ってから今の今まで、少女のことを忘れた日はなかったし、今ここにいる理由すら彼女が原因で想起された出来事のためだ。

「コトネちゃん、か?」

当たって欲しいような、当たらないで欲しいような、不思議な感覚だった。はい、と答えた声はやはり自分が思い描く人物のもので、ワタルの心は複雑に揺れた。
「フスベにいるのかい?」
自分の番号が――正体がばれるとしたらそこしかないだろう。チョウジタウンで彼女に出会ったとき、コトネのバッジケースには二つ空きがあった。チョウジからフスベはすぐ隣だ。彼女の実力ならばそう遠くないうちにフスベでワタルが隠していた事実に突き当たる可能性は高かった。

そして実際に、電話がかかってきたということは。

『…バッジを全て、集めました』

静かに、まるで彼女がいる町の空気そのものと同化したように、声は届いた。

「そうか…」

それ以上言葉が続かないワタルと違って、電波はコトネの声を運ぶ。

『…ジムリーダーのイブキさんは、とても強い人でした。ハクリューこそ最終進化系ではないけれど、ドラゴン族のポテンシャルを最大限に引き出していて、今まで戦ったジムリーダーの中で、一番強かったです』

イブキが聞いたら大いに照れながら喜びそうなセリフだが、ワタルは黙って先を促す。
彼女が伝えたいことは、こんなことではない。それは、

『けれど、…。私には、ワタルさんの方がもっと強く感じました』

『私、ワタルさんと、戦いたいです』

ついに。来るべき時が来たとも言えた。いや、物語のラストシーンまだ先だ。だがしかし、このステージの最終章は、まさにここから始まるのであった。


彼女の言葉は、リーグチャンピョンへの挑戦。宣戦布告であった。


「…少し、落ち着いた場所で話がしたいな。時間はあるかい?」
『はい』
「そうか。じゃあ、そうだな…フスベのポケモンセンターで待ち合わせしよう」
『はい。…あの、行きたい場所があるんです』
「フスベの中で?」
『そうです』
「わかった。すぐに行くよ」
『それじゃあ、また後ほど。…待ってますから』

ぷつり、と途切れた電子音は、彼女と自分の今までの関係をも切ってしまったようだ。もう元には戻れない。彼女は待っている、と言ってた。ポケギアをしまい、のろのろとでかける用意をする。
彼女と出会うのを、なるべく先延ばしにしたい気持ちでいっぱいだった。



カイリューの背に乗りながらも、ワタルは心はここにあらずといった体だった。思考は彼女との出会いから始まり、いかりの湖、ロケット団アジトを経由して電話がかかってきたところが終着駅だった。電話の意味について考える。終点についても降りることはできず、再び思考は出発地点へと戻った。その繰り返しだ。

彼女は責めるだろうか。
空を切る風の冷たさが、心臓の鼓動を鈍らせていた。嘘をついていたわけではないが、重要な情報を意図的に隠していたのは事実だ。
正体を明かさなかったのは、ひとえにワタル個人のわがままのためであった。一目見たときから惹かれていた。彼女とはチャンピョンとしてではなくただの一トレーナーとして接したかった。四天王でも、チャンピョンでもない。一人のトレーナーとして彼女と付き合い、その成長を見たかった。真実を告げることで失われる関係が怖かった。
だがワタルの考えを彼女が理解できるかどうかはわからないし、事実を教えなかったことは彼女を落胆させたかもしれない。
いつからこんなに臆病になったのか。気づいてワタルは苦く笑んだ。
責められたとしても、結局自分はあの建物の最奥で待つことしかできない。



ポケモンセンターに着くと、目的の少女は入ってすぐのソファに腰掛けていた。いつも隣にいたバクフーンの姿が今日は見あたらない。センターの中に人影は少なかった。町の人々は寝静まり、旅人もまた宿で休む時間だ。
ソファに近づくと、コトネが気がついて立ち上がる。
「コトネちゃん。久しぶりだね。待たせたかい?」
「いえ、突然電話して、すみませんでした」
「気にしないでいいよ」
中身のない会話だった。本当に話したいことは、こんなことじゃない。
ワタルは罪をいつ宣告されるか気が気ではなかったが、コトネはワタルの望む言葉を与えずに、外へと誘う。

「ちょっと寒いかも知れませんが、来て欲しいんです」

そう言ってポケモンジムがある方向へと足を向けた。ジムが目的ではないだろうから、ワタルは行き先をすぐに悟った。そうしてしばらくすると、幼い頃から通いなれた洞窟の湿った土を踏んだ。


「この洞窟は、この町を象徴していますね」

大穴の半ばで立ち止まると、空気が違うと、彼女は言った。ドラゴン使いの里が持つアトモスフィア。その原点はこの洞窟にある。こんな枯れた山の中に町があるのは、ここに竜の穴があるからだった。

「この町に来たとき、ワタルさんを思い出しました。この町の空気が、ワタルさんが持っている独特の空気ととても似ていると思ったからです」
「長老に聞いて、イブキさんに聞いて、納得しました。ここは、ワタルさんの故郷なんですね」
それから、と彼女は続けた。
「ワタルさんの、お仕事のことも、聞きました」

言って見上げた彼女のまなざしの、なんと強いことか。
夜と同じ色をした瞳が、しかし夜気を切り裂いてワタルに到達する。溶けることのない力強さに、引き込まれる。

「隠していたことは、謝るよ」

引力に逆らうのは困難だった。ワタルが言うと、コトネは小さく首をふった。

「最初は、どうして、って思いました。ずっとそればかり、考えていました」
再び足先を外へ向けながら、コトネはぽつりぽつりと語り出した。
どうして言ってくれなかったんだろう。どうして、助けてくれたんだろう。どうして、一介のトレーナーである私に、あなたは優しいんだろう。
どうして、どうして、って。
コトネの想いは湿った壁に吸い込まれるように消えていった。なんと答えたらいいのかわからず黙って付いていくと、コトネが歩みを止めて振り返った。月影照らす空の下で、開かれた口から決意が溢れる。

「だけど、もういいんです」
「どういうことだい?」
尋ねる声は掠れているようだった。
「子供みたいに、答えを欲しがるだけの行為に、何の意味もないと思ったんです」
「…」
「ワタルさん、私は、ポケモンリーグへ挑戦します。あなたと、戦います」
「…」
「そうしたら、私のことを、認めてくれますか」

ワタルは天を仰いだ。
彼女は、ワタルの想像の上をゆく精神を備えていた。コトネはワタルをなじることも咎めることもしなかった。そんなのは、ワタルが生んだ妄想の中のコトネが勝手にやったことだ。
目の前の子供は既に羽化している。まったく違う生き物だ。
そして自分が、コトネを一人のトレーナーとして求めながらも子供と軽んじていた矛盾にも気づく。
ワタルの胸には様々な思いが去来したが、そのことで心は逆に平静を取り戻していった。

「わかった。…オレに勝ったら、もう君に隠し事をするのは止めよう」

それが、コトネに対する愛情だった。
約束ですよ。
差し出しされた細い指に、ワタルも自分のそれを絡める。
子供はもう子供ではない。ワタルが悩んでいる間に、彼女は自ら答えを出した。ならば、こちらもそう対応しなくてはならない。それが大人というものだ。

「次のリーグ開催は一週間後だ」
「はい、知ってます」
「チャンピョンロードは生半可な強さじゃ抜けられないぞ」
「ワタルさんに会おうとしてるんです。それくらい、どうってことないです」

自信満々に微笑む彼女に、ワタルもつられて笑った。今日会ってから初めて見るコトネの笑顔だった。そして自分もまた電話を受けてからずっと顔の筋肉が強ばっていたことに気づいて苦笑する。

「今日はフスベに泊まるのかい?アサギまで送ろうか」
「いえ、イブキさんとのバトルがあったので、ポケモンセンターにみんなを預けてるんです。だから、明日の朝早く出発します」
「そうか…がんばれよ」
「ふふ、ワタルさんも?」
「オレは負けないよ」
「私も、負けません」

ワタルの釣り上がった口角に対し、コトネもまた不敵に笑った。一つの壁を乗り越え、そしてまた目前に現れた壁に意気燃える小さな意志。彼女はたどり着く。
きっと、最高のバトルが出来るだろう。

「じゃあ、一週間後に」
「ああ。…待ってる」


待ってるよ。
コトネの背中を見送りながら、ワタルは呟いた。
初めて会ったとき、彼女はまだ蝶ではなかった。だが知らない間にさなぎを経て、今まさに羽を広げようとしている。川を昇る小さな魚が竜になるように、誰の手も借りずとも、誰に知られなくとも、彼らは進化していくのだ。そして、まだ。
波乱を予感させる少女の瞳を思い出し、ワタルは一人顔をほころばせた。



(その進化は未だ)
とどまるところをらない