あかね色に輝く夕空の下、潮騒と共に微かに汽笛の音が響き渡る。
クチバシティに入港した大型客船はまもなく出港の時刻を迎えようとしていた。その巨大客船はジョウトのアサギ、ホウエンのカイナ、シンオウのミオなど世界各国を渡り行く。船乗り場には新しい旅路に心躍らす者や別れを惜しむ人々で溢れかえっていた。
その人波の中で、一人の少女が必死にきょろきょろと首を動かしていた。小さな身体をよろけさせ、あちらへこちらへと人をかきわける。
コトネの元へ一報が入ったのはつい朝のことだ。先日チャンピョンの役目を終えたばかりのあの人が、船のチケットを取ったと聞いた。
ポケギアを閉じた自分は、どんなに青ざめていただろうか。いや、今だって、最悪の事態を考えて息ができなくなりそうだ。
どうか、まだ行かないで欲しい。
焦りに背中を冷たく濡らしながら、コトネは思い人を必死で探していた。
そして船へと乗り込もうとしているマントの影を捉えたとき、周りに目もはばからず、あらん限りの声で名前を叫んでいた。

「ワタルさん…!」

呼ばれた青年が振り返った。
夕日に照らされて赤い髪がより一層赤く輝き、燃えているようだ。その手には大きなトランク。マントはいつも付けているものより厚手で、少し薄汚れている。
それを目にしたコトネは、まるで氷の手で心臓を掴まれたように硬直して動けなくなった。

明らかに、旅支度だった。

「やあ、コトネちゃん。こんばんは」
「どこに…」
行くんですか、とは言えなかった。嗚咽が喉を走り、声が出ない。言葉にならない。
その様子に、ワタルは少し瞠目した。
「少し、遠くへ行くつもりだよ」
詳しい場所には言及せずに、ワタルは答えた。コトネとしても、そんなことを聞いても仕方がない。自分の知らない場所へ行ってしまう。それだけわかれば、十分だった。
だが行き先を告げないことが、ワタルなりの別離の決意であることが伝わって、悲しかった。
どうして、と思う。顔にも出たようで、ワタルは口を開いた。
「ポケモンリーグチャンピョンは、到達点ではあるが通過点でもある。この意味が、今のきみならもうわかるだろう?」
「…はい」
「世界にはもっともっと強いトレーナーがたくさんいる。きみがオレを負かせたように。きみと会って、改めて思い知ったよ」
「だから、旅に出るんですか…?」
「そう。探しに行くんだ。自分の足で」
「そんな…だって、急に、そんなの…」
寂しい。言ってしまえば単純なのに、ワタルの前ではうまく言えなかった。まして別れ際に彼を困らせるようなことはしてはならなかった。
鈍く、長く、汽笛が轟く。時間は待ってくれない。別れの瞬間はすぐ側までせまっていた。
コトネはワタルの連絡先を知らない。下手をすれば今生の別れになるかも知れないのに、コトネはそれを聞くことができなかった。
泣きそうになったコトネの、白い帽子に隠された頭をワタルが見つめていた。
そしておもむろに、懐から薄っぺらい紙を取り出した。

「…コトネちゃん。ここに、船のチケットが二枚ある」
「二枚…?」
ぺらり、と出された紙は確かに二枚。ワタルの分が一枚。それから、
「オレはさ、賭けてたんだよ。オレが今日ここから出発するってことは、カリンに聞いたんだろう?」
コトネは頷いた。
「はい、今朝突然電話がかかってきて、それで急いでここまで来たんです」
「カリンに、コトネちゃんにそれとなく伝えるよう頼んだのはオレなんだよね」
「え!?」
目を見開いたコトネの顔を見て、ワタルはニヒルに笑った。
「賭けだった。それを聞いて、コトネちゃんがこの場所に来てくれるか。コトネちゃんにとって、オレが一体どういう存在なのか」

「もし来なかったら、これは捨てようと思ってた。きみと過ごした思い出と一緒に」

けれど、きみは来てくれた。
そう言って、ワタルはチケットを一枚差し出した。行き先は、北。

「オレと一緒に来ないか、コトネちゃん」

潮風がワタルの旅マントを、コトネの柔らかな髪を、悪戯に巻き上げ通り過ぎる。
迷うことはなかった。
差し出されたチケットを手に取り、そのままそっと自分の手を重ねた。
ワタルが微笑む。どこまでも優しく、温かい、コトネの大好きな笑顔だった。

「行こう。旅はまだ、これからだ」

出航を知らせる音色が、あかね色の空に壮麗に響き渡った。



潮風のゆくあて