『この電話は、現在電波の届かないところにいるか、電源が入っておりません』

かすかな電子音のあと、もう何度も聞いた台詞と一字一句違わぬ台詞をポケギアは返した。コトネは憮然とした表情でそれを聞いた後、最後にもう一度、とボタンを押していく。一つ一つ、丁寧に、願をかけるように押してみたが、結果は同じことだった。
思わず大きな溜息が出た主人を、隣にいたポケモンが不思議そうに見た。
外気から遮断された快適な空調と、にぎやかなポケモンたちの鳴き声で、ポケモンセンターの中は暖かな雰囲気で包まれている。訪れる人々はみな一様ににこにこと微笑んでいて、今日という日を祝福していることが窺えた。
常ならば人々の暖かな表情を見ているだけでコトネの心もほっかりと温かくなっただろう。しかしどうしてか今日はそんな気分にはなれない。自分の周りだけ幸福が避けているようだと思う。ふてくされたところで、結局ポケギアから望む人物の声は得られないのだが。

「ワタルさん、何してるんだろ……」

クリスマスなのに、と呟く声は小さい。
ポケモンセンターの大きく取られた窓からは鮮やかに彩られたイルミネーションが輝いていて、まるで昼間のような賑やかさだ。店のネオンも、家の庭先も、どこもかしこも華やかなのは、今日が一年に一度のお祭りだからだ。
特別な夜。
コトネにとっても、もちろん特別だ。
それなのにワタルと連絡が取れない。何度電話をかけてみても、帰ってくるのは無機質な自動音声だけ。
「電波の届かないところって、どこよ…」
膝の上で握られた拳は小さい。
ポケモンリーグのチャンピョンの間では電波が届かない。もしかして仕事中かな、と思ったがそういう時、ワタルは必ず先に連絡をくれる。
念のためセキエイ高原まで行ってみたが、閑散としたリーグにはシバが一人残っているだけだった。さすがにクリスマスともなればポケモンリーグとて開店休業のようだ。

「どこに行っちゃったんだろう」

せっかく、せっかくクリスマスなのに!
一年に一度の特別なイベント。窓の中でも外でもみんな楽しそうにはしゃいでいる。こんなところにぽつんと一人でいるのはコトネだけだ。
「……好きな人と一緒にいたいと思うのは、私だけなのかな」
もしかして他の女の人と、と一瞬浮かんだ考えにコトネは首が取れるんじゃないかというぐらい強く振った。
ワタルはコトネを裏切るようなまねはしない。それよりも、今日みたいな日に何も連絡がないことが悲しかった。想いは確かに通じているはずなのに、行きの重さと帰りの重さが釣り合わない。
手元には鳴らないポケギア。着信履歴にはいないのに、発信履歴には残る名前。
もう一度大きく嘆息してから、思い切ってコトネはポケギアを閉じた。


外に出るとひゅるりと吹いた木枯らしに、コトネは小さく身を震わせた。快適な温度を保っていたポケモンセンターとは違って、外はかなり空気が冷たい。
それでも、目の前のメインストリートを彩った鮮やかな光や音は、ポケモンセンターの中で見た時よりも暖かく感じさせた。

「……ローストチキンでも買って帰ろうかな」

人間、おいしいものを食べれば元気になるらしい。
母は驚くだろうか。
そうだったら、嬉しいと思う。
「どこに売ってるかな」
見渡すとイルミネーションの光がちかちかと目に入る。
夏期に青々と葉を茂らせていた木々は、今は代わりに様々な色合いの電球を纏ってフォルムチェンジしていた。その光の木立の下、肉屋を探し視線を巡らせていたコトネは、あるものを目にして心臓が飛び跳ねた。

最初は見間違いだと思った。
青いマントを纏った青年が、寒空だというのに向かいのオープンカフェに腰掛けている。
後ろを向いているので顔は見えない。だがあの、目立つ赤い髪。
淡い期待感と、こんなところにいるはずがない、という思いが交錯し、次の瞬間コトネは走り出していた。

「ワタルさん!」
「……やあ、コトネちゃん。ここにいれば会えると思ったよ」

コトネが叫ぶように声をかけると、振り向いたワタルはゆったりと笑って手を振った。
「どうしてここに」
息を切らせて駆け込むと、ワタルが隣の椅子を引いてくれた。カフェテラスには天幕がはってあり、ストーブまで用意されている。外から見たよりも大分暖かかった。
なにより、ここにはワタルがいて、自分は一人じゃない。

「コトネちゃんを待ってたんだよ」
「どうして、」
「だって今日は特別な日、だろう?」

特別な日。
ワタルからその言葉が出てくるとは露にも思っておらず、コトネは大きく目を見開いた。
コトネはこの日をずっと待ってたし、だからワタルがいないことが寂しかった。少し、恨んだりもした。
けれどワタルは今隣にいてくれるし、特別な日を、自分と過ごそうとしてくれている。
甘美な響きを伴った台詞に、コトネははにかんで笑った。先程までの鬱屈した気持ちはどこかへ飛んで行ってしまった。いつもそうだ。ワタルはそこにいるだけで、コトネに幸福をくれる。
柔らかく微笑んだコトネに、ワタルもまたにこりと笑顔を返してくれた。

「何か温かいものでも頼もうか。ホットココアでいいかい?」
「わあ、大好物です。ワタルさんは……うーん、これとか?」
コトネが指さしたのはクリスマスブレンドと銘打たれたコーヒーだ。
「おいしかったけど、オレには少し微妙だったな。酸味が強い」
「もう飲まれたんですか?あ、もしかして私のこと待ってる間に…」

これにワタルは何も言わず苦笑だけで返した。それだけで察してしまったコトネは申し訳なさそうに顔を曇らせた。知らなかったとはいえ、この寒空の中待たせてしまったことが心苦しい。
大型のストーブから吐き出される温風は足下からさしこむ冷気を懸命に押しとどめてはいたが、ポケモンセンターの調整された空調とは比べるまでもない。

「気にすることはないよ。今日は何しようかって考えてたらあっという間だったさ」
「でも…」
「オレもココアにしようかな」

眉根を寄せたコトネに優しく微笑みかけると、ワタルはこの話題はもうおしまいとばかりに手を挙げてウェイターを呼んだ。
呼ばれた青年がメモにそれらしき文字を書き付け、店内へと去っていく。テラスには他にもちらちらと客がいた。メインストリートに面したここはクリスマスのイルミネーションが一望できる。

「そうだ。ワタルさん、ポケギア壊れちゃったんですか?私何度もかけたんですけど…」

責める調子を含まないように細心の注意を払いながらコトネは尋ねてみた。会えたのだからもういいが、またこんなことがあった時のために聞いておきたい。
コトネが首を傾けると、ワタルはああ、と大きく溜息を吐いた。

「ごめん、置いて来ちゃったんだ」
「忘れちゃったんですか?なんだ、よかった。でも珍しいですね」
コトネが考えていた「電話に出ない様々な悪い理由」と比べれば、なんてことはない些細な理由だ。
「いや、そうじゃなくて…」

しかしほっと安堵の息を吐くコトネにワタルは気まずそうに目を泳がせた。

「ワタルさん?」
「……わざと置いてきたんだ、ポケギア」
「…え」
「その、コトネちゃんとの時間を邪魔されたくなくてね」
「あ…」
「でも、そのせいできみに寂しい思いをさせたね」

そう言って大きな手で頭を撫でられれば、コトネとて何も言えなくなる。
二人が一緒に過ごせる時間は少ない。お互いがそれぞれやることを抱えているので仕方ないと言えば仕方ないが、その僅かな逢瀬の時すら、突然鳴り響いた電子音でデートは終わってしまう。
寂しさを懸命に抑えて送り出す姿は健気だった。
そういうことが片手では足りないほどあって、そのたびにコトネが悲しげに顔を曇らせていたのを、ワタルはちゃんと知っていたのだ。

「えへへ…」
「うん?」
「その、嬉しいんです。ワタルさんが、私のこと気遣ってくれたっていうのが」

帽子の上から伝わる体温が温かい。顔を上げなくても、ワタルが微笑んでいるのがわかった。
しばらくそうして優しさを享受していると、先程のウェイターがココアを二つ持ってやってきてテーブルに置いていった。手が離れる。
コトネの側に置かれたココアにはクリームが乗っていた。




カフェを出ると冷たい寒風が二人を容赦なく吹き付けた。巻き込まれた木の葉がくるくると回って店の軒先に滑り込む。
「寒…」
「冷えるねえ。雪が降るかもな」
「あの…ワタルさん。お願いがあるんですけれど」
「なんだい?」
覗き込むように問いかけられた顔は存外に近く、コトネは少し鼓動が早くなるのを感じた。
コトネが息を吸ったり吐いたりしてなんとか言葉を紡ぐまでの間、ワタルはゆっくりと待っていた。

「手、繋いでもいいですか?」
「……」

たったそれだけのことなのに、ワタルに告げるのはすごく緊張した。耳が熱い気がするのは、寒さのせいだけではないはずだ。
いつもより少しだけ早い鼓動を感じながら「いいよ」と優しく伸ばされる手を待っていたが、なかなかそれは訪れなかった。
「ワタルさん…?」
身を縮めたコトネが上目遣いに隣の青年を見上げようとあげた顔に、ふと影がかかった。
ワタルが身を屈めたのだと。
そのせいでできた影が自分を包んだのだと。
そして唇の上を優しく這う生ぬるい感覚が、ワタルによってもたらされたものだと。
全てを理解したのは、再びコトネの顔に光が差してからだった。

「……わ、ワタル、さん!!こんなところで!」

呆然と立ち尽くしていたコトネが自失から回復すると、ワタルがまったく悪びれずに笑った。
「誰も見てないよ」
ワタルの言うとおり、辺りを見渡せば誰も彼もが眩いイルミネーションに目を奪われ、のんびりと雑踏を歩いて行く。コトネの大声に振り向いた人はいたが、それも一瞬であり子供に手を引かれた彼らは再び華やかな町並みに見入ってしまった。
コトネにとっては大事件だが、周りの人にとってもそうであるかというと答えは否だ。

「そ、そういう問題じゃないです」
そう呟いてぷっと膨らませた頬は赤いまま。抗議の視線も何の意味もない。
「ごめん、だってコトネちゃんあんまり可愛かったものだから」
「……そういうのは、ずるいです」
「じゃあもう一回してもいいかい?」
「だめです!」
大きな声を上げたコトネに、ワタルはまた笑った。
行こうか、とさしだされた手はコトネが欲しかったもの。口を尖らせながらもコトネは素直に自分のそれを重ねた。結局、自分はこの男には適わないのだ。
それに、手を繋いでいる間はワタルはコトネのものだった。

「……人がいないところだったら、いいですけど」
「人がいないところ、か…それはまずいな」
「何がですか?」
「キスだけじゃ止められそうにない」
「ワタルさん!!」
「冗談だよ。……冗談だよ?」
「……」

覗き込んでくる悪びれない笑みにそっぽを向きながら、それでもコトネは、できれば来年もこの青年と一緒に過ごせますようにとこっそり思うのだった。


彼がもたらすもの